プロレタリア・エスペラント運動とそのエスペラント観

プロレタリア・エスペラント運動の言語としてのエスペラント観については、運動内でどのくらい共通のものであったのか知らないが、次のようなものがあった。すなわち、人類史的な展望の中で、生産力の発展と階級闘争の発展、労働者階級による権力奪取により、階級分裂と階級支配とにその根拠を持つ国家がなくなり、民族間の区別がなくなっていくなかで、言語も単一化していくが(スターリンによればそれはロシア語)、その過渡的な橋渡し言語がエスペラントであ(りう)る。
当然ながらこういう言語観・エスペラント観は「学問」的にはあまりに図式的なので、その妥当性が疑われる。




しかし、プロレタリア・エスペラント運動におけるエスペラントは、被抑圧階級・被抑圧民族間の連帯と情報交換、階級支配や帝国主義支配の現実を暴露し、階級闘争や民族解放のたたかいを鼓舞する文化芸術作品の創出の実践的なツールとして位置づけられていたものと考えられる。
ザメンホフのホマラニスモは、被抑圧民族とししてのユダヤ人、ポーランド人が創出したという点で素朴な民主主義的志向が肯定的に評価される一方、ホマラニスモに(のみ)基づく組織や運動は、現実社会の階級支配や階級闘争の必要性を覆い隠してしまうものとして「ブルジョア的」として、場合によっては(プロ・エスからの)否定や攻撃の対象となったと思われる。
実際にも「ブルジョアエスペラント運動」は「中立」を旗に反帝国主義・民族解放闘争や労働者の地位向上のたたかいからは一歩も二歩も離れて、かかわろうとはしなかったものと推察される(学者じゃないんで、丁寧に確かめてはいません)。


『プロレタリア・エスペラント講座』3巻には、次のようにある

ザメンホフの生れたのは1855年、その頃は丁度、西ヨーロッパの賓本主義の發逵とロシアに於ける封建的勢力との對立がポ一ランドに於いて激化していた頃である。...ザメンホフの生れたポーランドでは階級闘争は或はポーランド独立運動となり、或はポーランド貴族に對するポーランド民衆の民主主義的革命運動、發展となった頃である。…ポーランド階級闘争はかくして世界的に重要だった…。この環境に生れて育ったからザメンホフは子供ながらにも世界の問題を問題としたのであり、その思想は民主主義的であって尚權力者に對しては消極的ながら否定の態度をとっているのである。

プルヂヨア社會は一先づ世界市場を作り出したが同時に、その必然の矛盾のために世界を血ナマグサイ帝國主義者の對立に分割した如く、ブルヂヨア社会が作り出した世界語たる英語、フランス語、ドイツ語等々はその内容に無秩序、混乱、對立を持って居る。完全な世界語はプロタリアによってのみ実際に採用され、實際に役立てられ、完全に完成される。それは規則的であり、単純であり、個人の利益のみのためでなく、社會の利益のために統制され、管理される言葉である。

朝比賀昇のプロレタリアエスペラン(ティス)ト観(メモ)

朝比賀氏の書いたエスペラント史を拾い読みしているが、たいていプロレタリアエスペラント運動の陣営については、「だれが始めた」「次々と検挙された」「壊滅してしまった」で終わっている印象がある。対照的に長谷川テルや斎藤秀一は称揚の対象になっている。


しかし、1986年9月号のLa Revuo Orienta 誌に寄せた「プロレタリアエスペラント運動の闘士 岡 一太さんを悼む」の最後には次のようにあるのを見つけた。

プロエスの同志たちがエスペラントによる不屈の闘いを日本帝国主義に対して挑んだのは、長谷川テルがそうであったと同様に、彼らがザメンホフの精神を継ぐ正統の子であったからであろう。政治的偏向や闘争手段の拙劣さによって日本のプロエス運動はあえなく消え去ったが、帝国主義の巨大な歯車に果敢に立ちむかった抵抗の記録こそ私たちのエスペランティストの誇りでなければならぬとおもう。

「政治的偏向や闘争手段の拙劣さ」というのが「プロレタリア」なのか、それとも当時のプロエスの人たちの党派性がそうだというのか、あるいは共産党という組織を昔も今も嫌っているということか、わからないけれども、それなりの敬意を持っているということはわかったので記しておこう。


もうひとつ追記すれば当時の自由や民主主義の弾圧、国家暴力的な治安諸法、労働者・女性の無権利状態に対抗するに、「労働者」(プロレタリア)の立場に立たずに「政治的偏向」をまぬかれる「拙劣」でないような闘い方は、どういうものがあったのか、尋ねてみたい気もする。

朝比賀昇のエスペラント運動観(知らんけど)

エスペラントに色はナシ

朝比賀昇氏はたとえば、「エスペラントにとっての100年」において、プロレタリアエスペラント関係の人たちを紹介するのに、次々と特高に捕まった経過に言及はするけれど、それほど好意的な言葉は使わず、「ザメンホフがどのような理想からこの言葉を創案したにせよ、言語自体が創案者の手を離れて独り歩きをし始めたことは興味深い事実である」などのように、プロ・エスの人たちが命がけで闘ったことには関心のなさそうな表記をしている。
また、「エスペラント自体は思想をもっておらず、そのエスペラントを使うエスペランティストの考え如何によって、エスペラントは戦争反対の道具にもなれば、戦争を煽る道具にもなるのである」、とも述べている。

この彼のエスペラント観によれば、高橋邦太郎という古参の論を反駁することは難しい。すなわち「エスペラントは単なる言語にすぎないのであって、コミニュケイションの便利な手段だということ以外の、特定の思想に結びつけるべきではない……日本を勝たせる為にはエスペラントを戦争に利用しても構わないと信じる。この観点から、現在の日本の態度は議論の余地なく正しいものであり、これ以外の方法では東洋ないし世界に真の平和をもたらしえないことを、エスペラントによって全世界に認識させるべくたち上がり、努力すべきことが緊急である。」
なので、争うところは「正しいもの」「真の平和」くらいにならないだろうか。
私としてはそれでいいと思うし、主戦場は「正しさ」や「真の平和」が植民地支配や侵略戦争でありうるかどうか、ということになり、それはエスペラント「語」とは違う土俵での闘いになるはずである。
ちなみに、高橋邦太郎氏は、世界エスペラント協会の機関誌に投稿した「不平児」氏に対して、非国民・売国的などと非難しており、氏にとっては「日本」が重要であるという思考パタンが支配していることがわかる。

エスペラント報國同盟には厳しい朝比賀

しかし、エスペラント報國同盟やその活動については手厳しい。
「国同盟は…中国人スパイのさらし首など20葉の写真にエスペラント文の説明をつけたパンフレットを出して、エスペラントを恥ずべきさらしものにした。」
「中国侵略を正当化し、戦争を押し進める仕事にエスペラントを使ったことは、日本エスペラント運動史上に拭い去ることのできない汚点を残した。」

エスペラントエスペランティストと戦争

「狂信的愛国心が日本を敗戦に導いたことや、ザメンホフの理念をねじ曲げてエスペラントを戦争に利用したことを、日本のエスペランティストは正式に反省したことは唯の一度もなかった。あの頃は、日本人全員が日本政府による偽りの発表にだまされて、戦争熱に浮かされており、愛国心にかられてあのような行動をとったのだから仕方がない、と報国同盟の行動を正当化する考えを述べる人も少なくない。しかしながら、日本人であるまえに、一人の人間として、戦争つまり人殺しに加担したこと、侵略を煽動・援助・賛成したこと、に対して恥ずべきではないだろうか。」
「私たちは政府や軍人がどんなに信用できないものであるかを骨の髄まで思い知らされた。私たちは、エスペラントを通じて世界の人々の気もちや、世界情勢を正しく知り、政府の目によらずに、自分自身の目で世の中を判断する必要がある。それもまた、エスペラントを活かす一つのみちなのであり、…」

正しい認識は?

戦争に利用されたのはエスペラントだけではなく、文学も絵画も科学も利用されたのであって、それは文学・絵画・科学・エスペラントのせいではなく、文学者・画家・科学者・エスペランティストの責任である。だから「○○であるまえに、一人の人間として」と言わざるを得ないのだが、問題は「正しく知り」「自分自身の目で」ということが何によって可能なのか、ということである。
今日、「自分自身の目で」歴史を「正しく知った」結果が、皇国史観であったり、歴史修正主義であったりするわけであるから、「一人の人間」として自己反省してみるだけでは全く足らないのである。


ヘーゲル主義者のわたしとしては、真の文学、真の絵画、真の文化、真の科学、そして真のエスペラント運動の概念を十全に構築すること、逆に言うと、他者の尊厳を否定するような文学、絵画、文化、科学はそれ自体文学・絵画・文化・科学を否定するもの(核兵器を容認して製造してしまうような科学技術は、現実を媒介して当該の科学技術の存立自体を否定するように)という概念の確立が求められると思う。
思うが、実際には人権尊重・個人の尊厳を絶対的に基礎にした(歴史・社会・自然)科学の成果をエスペランティストが身につけることがエスペランティストである前に一人の人間としての責務であろうことは繰り返し強調されなければならないだろう。

朝比賀のエスペラント運動観

朝比賀の他の物をきちんと読んではいないが、彼が、その「エスペラント観」に拘らず、報國同盟のことをエスペラント運動の立場から否定的に言うのは、エスペラント運動が単にエスペラントの普及というだけではなく「一人の人間」としてなすべきこと・譲ってはならないことを持っていると考えていることの証左ではある。それはザメンホフのホマラニスモにつながるものであろう。
(「一人の人間」であるよりも「一人の日本人」というカテゴリーを重視する人もおり、ただ「人間性」なる単語を足場として据えるだけでは難しい。やはり現行の日本国憲法や人権宣言等の到達を丁寧に踏まえる、それらについて知悉することが重要になろうか。)

エスペラントは平和運動にあらず

エスペラントを平和のために用いたいと思っている人に対しての朝比賀(小林)氏の指摘は重要。
ここでは引用以外のことは書かないでおく。

La Revuo Orienta 1987年7月号
朝比賀昇「エスペラントにとっての100年 4. プロエス運動の人びと」より

ザメンホフエスペラントを発表して僅か40年ほどあとになると、ザメンホフがどのような理想からこの言葉を創案したにせよ、言語自体が創案者の手を離れて独り歩きをし始めたことは興味深い事実である。…エスペラントは一つの言語であって、どんな目的の為にもこの言葉を使うことができるという「プーローニユ宣言」はザメンホフの理想を空しくするものとしてとかく批判されがちであったが、宣言の有無にかかわらず、事実はその方向へ動いていた。


La Revuo Orienta 1987年8月号
朝比賀昇「エスペラントにとっての100年 5. エスペラント報國同盟の人びと」より

 日本が日中戦争[支那事変]にのめりこんだ1937年とその翌年とに、日本のエスペランティスト達がどのような行動をとったのかを調べてみると、日本政府の中国侵略に積極的に協力しようという傾向が目立つ。すでに人民戦線は潰滅していたから、反戦活動は望むべくもなく、日本エスペラント学会が学術団体のふりをして政府に協力しないことが精一杯の抵抗であった。エスペラントを使っていれば平和愛好者であり、また、エスペラントは平和の言葉だと信じている者がいるとすれば、それは単なる幻想にすぎないということを、この2年間の日本のエスペランティストの動きがはっきりと示してくれた。
 つまり、エスペラント自体は思想をもっておらず、そのエスペラントを使うエスペランティストの考え如何によって、エスペラントは戦争反対の道具にもなれば、戦争を煽る道具にもなるのである。エスペラントは、もはやザメンホフの理想とは何の関係ももたない、独立した存在であり、e-istoがザメンホフを尊敬しようが、軽蔑しようが、それは全く個人的好みの問題であって、エスペランティストだからザメンホフの理想を理解したり支持していると思うとまちがいなのである。「エスペラントは平和のためのコトバだ」という妄想にとらわれている限り、エスペラントを使ってさえいれば自分は平和に貢献しているのだという誤解をしてしまう。要するに、エスペラントはいかなる思想とも結びついていないことを、すべてのエスペランティストははっきりと自覚していなければならない。

萩原洋子 sur La Revuo Orienta

萩原さんといえば、小林司氏とご夫婦であられたことで知られる。1976年の「消息」にそう書いてある。
ヒレリスモとザメンホフは、朝比賀の Homaranismo の記事とあわせて読んでみたい。

1972年07月 p34= 第21回関東大会に参加して … 萩原洋子 p34
1973年02月 p18= ヒレリスモとザメンホフ (1) … 萩原洋子 p18---26
1973年04月 p12= ヒレリスモとザメンホフ (2) … 萩原洋子 p12---17
1973年05月 p27= ヒレリスモとザメンホフ (3) … 萩原洋子 p27---34
1973年07月 p14= ヒレリスモとザメンホフ (4) … 萩原洋子 p14---16
1973年09月 p27= ヒレリスモとザメンホフ (5) … 萩原洋子 p27---34
1974年01月 p30= 紹介«国際語とE≫に関する本3冊 … 萩原洋子 p30-31
1974年04月 p12= エスペラントで成長した私 … 萩原洋子 p12
1974年04月 p37= (豆伝記) エスペラントを創ったザメンホフ … 萩原洋子 p37
1975年03月 p31= 書評 : 「en la Nubon Ŝi Sorbiĝis for」、「Danjo en Vetnamio」 … 萩原洋子 p31
1975年10月 p04= La Forto de l' vero (やさしいよみもの) … 萩原洋子 p4---6
1975年12月 p04= Venas la Vintro Ne Foras Do l'Printemp' (やさしいよみもの) … 萩原洋子 p4---6
1976年02月 p04= Anlaŭparolo al la Unua Libro (やさしいよみもの) … 萩原洋子 p4---6
1976年04月 p04= 万葉集(やさしいよみもの) … 萩原洋子 p4---6
1976年05月 p25= エスペラントを育てた人びと(5) E. Privat … 萩原洋子 p25
1976年10月 p27= Somera Seminario の概要 … 萩原洋子 p27
1976年12月 p34= 消息: 小林司・萩原洋子 p34
1990年05月 p37= ランプの下のザメンホフ … 萩原洋子 p37
1990年09月 p39= 第1回エスペラント文化フォーラム … 萩原洋子 p39
1991年02月 p40= 第2回エスペラント文化フォーラム報告 … 萩原洋子 p40
1991年07月 p03= 第3回エスペラント文化フォーラム報告 … 萩原洋子 p3
1992年02月 p06= 第4回エスペラント文化フォーラム報告 … 萩原洋子 p6
1992年08月 p07= 第5回エスペラント文化フォーラム報告 … 萩原洋子 p7
1993年02月 p07= 第6回エスペラント文化フォーラム報告 … 萩原洋子 p7
1996年12月 p31= わたしの出した1冊の本(75) 4時間で覚える地球語エスペラント小林司・萩原洋子 p31
1997年05月 p36= はじめまして: 萩原洋子さんの記事で興味を引かれ … 原健太郎 p36
1997年07月 p23= 関東甲信越・東北地方のスウェーデン巡回講演会を終えて … 小林司・萩原洋子 p23-24
1997年10月 p18= 小坂賞、今年は小林司・萩原洋子夫妻に p18
1997年10月 p18= 小坂賞受賞のことば … 小林司・萩原洋子 p18
1997年12月 p07= アルジェンタ・グルーポ / エスペラント国際情報センター … 小林司・萩原洋子 p7
1999年04月 p18= 「バスカヴィル家の犬」のエス訳を読む … 小林司・萩原洋子 p18-19
1999年12月 p12= 第1回小坂記念シンポジウム「エスペラント運動にどうかかわるか」 … 小林司・萩原洋子 p12
2001年11月 p37= エスペラントを語る会 … 萩原洋子 p37
2003年04月 p05= スウェーデン4人旅 … 萩原洋子 p5-6
2011年01月 p30= 追悼:夫 小林司のこと … 萩原洋子 p30
2012年06月 p41= 新業議員紹介: 太田束穂、向後千春、佐々木照央、土居敬和、萩原洋子、補欠: 後藤斉、山崎基弘 p41
2016年05月 p45= 新評議員紹介: 向後千春、後藤斉、重藤知夫、田井久之、萩原洋子、(補欠)山崎基弘、中山緑 p45
2017年03月 p12= JEI図書館活用の現場から (5) : JEIの図書館は何でもそろっている宝箱 … 萩原洋子 p12
2017年06月 p13= 斎藤秀一の生家訪問記 … 萩原洋子 p13-14
2017年12月 p22= わたしの出した1册の本(277) 日本エスペラント運動の裏街道を漫歩する … 萩原洋子 p22
2019年10月 p21= 斎藤秀一刊行雑誌 Latinigo の日本語訳公開 … 萩原洋子 p21<<

土居智江子 sur la Revuo Orienta

土居智江子さんといえば、「希望する人 ザメンホフ伝」を書いた方である。各位もぜひお読みいただきたい。

下の中では、94年から98年の記事が面白そう。

1981年11月 p14= 書評 : Laŭ metodo Kriis … 土居智江子 p14-15
1983年05月 p26= Recenzo : 夜あけ前の歌 … 土居智江子 p26-27
1983年07月 p15= ひろば: 土居智江子さんへ … 高杉一郎 p15
1985年06月 p20= # El Nuntempa Japanio : Nova Tajdo de Pacmovado … 土居智江子 p20-21
1986年03月 p27= ひろば: 「サルートン!」の感想をお聞かせください … 土居智江子 p27
1988年10月 p23= ひろば: … 土居智江子、衣笠弘志、平井淳、 p23-24
1989年08月 p06= 講習用書を考える … 土居智江子 p6-7
1989年12月 p31= わたしの2冊(10) 土居智江子 菊島和子 伊藤俊彦 p31
1989年12月 p46= わたしの2冊(12) 土居智江子 p46
1989年12月 p49= わたしの2冊(13) 土居智江子 星田淳 p49
1990年06月 p09= 名長編17作品一挙解題 … 筒井和幸、森田明、土居智江子、堀田有里、ほか p9---13
1990年11月 p05= 第77回日本エスペラント大会を終えて … 土居智江子 p5---7
1992年11月 p03= アジアの運動についても討論 … 土居智江子 p3---6
1992年11月 p13= 小坂賞受賞者の横顔:はじめて夫婦で受賞 … ドイヒロカズ、土居智江子 p13
1994年03月 p33= わたしの出した1冊の本(50) Hanako lernas Esperantan … 土居智江子 p33
1994年10月 p07= アジアをめぐる討論に参加して … 土居智江子 p7-8
1994年11月 p06= 「アジア訪問団」交流の旅の記録 … 土居智江子 p6---9
1996年04月 p04= アジアの国々におけるエスペラントの現状 … 土居智江子 p4---6
1996年11月 p33= わたしの出した1冊の本(74) Gvidlibro pri Esperanto-Movado en Azio … 土居智江子 p33
1998年07月 p10= アジアのエスペラント運動の概要 … 土居智江子 p10-11
1998年12月 p22= ウズベキスタンの言語・民族・エスペラント事情 … 土居智江子 p22-23
1999年03月 p10= La Orpantalono … 土居智江子 p10-11
2002年03月 p19= 書評:Maskerado ĉirkaŭ la morto … 土居智江子 p19
2002年11月 p27= 書評:Kuniberto kaj Kilevamba … 土居智江子 p27
2003年03月 p19= アフリカに関する本 … 土居智江子 p19
2003年04月 p18= 日本文化紹介の本 … 土居智江子 p18
2003年06月 p31= 追悼:努力の人和田嘉子(さいこ)さん … 土居智江子 p31
2003年07月 p11= István NEMERE … 土居智江子 p11
2003年11月 p18= わたしの出した1冊の本(148) 「炎の行方 由比忠之進焼身抗議をめぐって」 … 土居智江子 p18
2003年11月 p31= 学校に縁の風を: 横浜市立西柴中学で … 土居智江子 p31
2004年05月 p16= # Ni komuniku nin per Esperanto … DOI Ĉieko(土居智江子) p16-17
2006年01月 p29= 追悼:中村正美さんについて … 土居智江子 p29
2006年03月 p27= 学校に緑の風を:横浜市立西柴中学校 … 土居智江子 p27
2006年04月 p22= 書評 # Recenzo : LA HOBITO aŭ tien kaj reen … 土居智江子 p22
2006年11月 p23= わたしの出した1冊の本(172) 「地球時代のことばエスペラント」 … 土居智江子 p23
2007年03月 p29= 追悼:浅川勲さん … 土居智江子 p29
2007年07月 p14= わたしの出した1冊の本(178) 『意あるところ道あり』 … 土居智江子 p14
2007年07月 p31= 読書案内 Malemuloj … 土居智江子 p31
2008年10月 p18= わたしたちの出した1冊の本(189) Japanio Kalejdoskope … 土居智江子 p18
2010年03月 p17= わたしの出した1冊の本(203) 『やさしいエスペラント対訳読み物 Barbro kaj Eriko』 … 土居智江子 p17
2011年06月 p16= わたしの出した1冊の本(216) Silento … 土居智江子 p16
2012年01月 p32= 学校に緑の風を:横浜市立西柴中学校で … 土居智江子 p32
2012年12月 p05= $ (世界平和と進歩のためにエスペラントを使おう) … ホセ デ カンポス パチェコキューバ)、 訳・土居智江子 p5
2013年01月 p15= 横浜市立西柴中学校で … 土居智江子 p15
2013年11月 p28= わたしたちの出した1冊の本(236) Punkuino … 土居智江子 p28
2015年01月 p22= わたしの出した1冊の本(246) 福井県エスペラント運動史 … 土居智江子 p22
2016年02月 p23= わたしの読んだ本 : La Mirinda Sorĉisto de Oz … 土居智江子 p23
2018年06月 p27= わたしの出した1冊の本(284) 『神奈川県エスペラント運動史』 … 土居智江子 p27
2018年11月 p23= わたしたちの出した1冊の本(288) 『カルロ』第2版 … 土居智江子 p23
2019年08月 p15= わたしたちの出した1冊の本(296) 『私のぞくぞく世界旅行』 … 土居智江子 p15<<

千布利雄 sur la Revuo Orienta

エスペラント主義はザメンホフの思想を伝えることではない

千布利雄という人は、初期の日本エスペラント運動史において教科書をつくるなど大きな役割を果たしたひとであるらしい。
しかし、彼は小坂等他のエスペランティストと意見が合わず、エスペラント学会の理事を辞任してしまう。

すなわち、

私共のエスペラント主義によれば、エスペラントによって色々の思想を宣伝し、またこれを色々の目的に用いる者は皆、我が同志であります…。私はザメンホフの思想を伝えることがエスペラント主義であり、エスペラントの主たる目的であることを認めません…、エスペランチストの一部にこうしたザメンホフの思想、人類愛というような崇高な理想を持っている人々のあることは結構なことだと思います…。そして私自身は全く自由なる一個のエスペランチストとして…。


まあ、エスペラント世界大会の「ブーローニュ宣言」に言う「これとは別の思想や希望をエスペラント運動に付け足すエスペランチストがいても、それはまったく個人的な問題であって、エスペラント運動は責任を負わない」(Cxiu alia ideo aux espero, kiun tiu aux alia Esperantisto ligas kun la Esperantismo, estos lia afero pure privata, por kiu la Esperantismo ne respondas.)という原則を以てエスペラントエスペラント組織のあるべき姿であって、ザメンホフの思想や希望 esperanto を言語としてのエスペラントに乗せるということについて、何か許しがたい嫌悪があったのであろう。

1921年06月 p17= 改訂版千布利雄『エスペラント全程』公告ちらし p17
1922年10月 p19= 前置詞 por と pro に就て (1) … 千布利雄 p19-17
1922年11月 p24= 前置詞 por と pro に就て (2) … 千布利雄 p24
1922年11月 p25= Volapük の滅亡とエスペラント (1) … 千布利雄 p25-26
1922年12月 p15= Volapük の滅亡とエスペラント (2) … 千布利雄 p15---20
1923年01月 p16= 前置詞の意義の一定について…千布利雄 p16-17
1923年09月 p06= 学会委員を辞するについて…千布利雄 p6
1923年12月 p13= 広告の取り消し(千布利雄氏から異議) p13
1924年03月 p04= 統一(連合)機関の設置に於て…千布利雄 p4---6
1924年07月 p35= 広告:大成和エス辞典…千布利雄 p35---37
1936年06月 p14= 生きたる証拠 … 千布利雄 p14
1976年02月 p26= 千布利雄について … 坪田幸紀 p26---29
1976年03月 p20= 千布利雄の年譜(1) … 坪田幸紀 p20---23
1976年04月 p19= 千布利雄の年譜(2) … 坪田幸紀 p19---22-26
1976年05月 p18= 千布利雄の年譜(3) … 坪田幸紀 p18---21
1976年07月 p19= 千布利雄の年譜(4) … 坪田幸紀 p19---21
1976年08月 p30= 千布利雄の年譜(5) … 坪田幸紀 p30---32
1986年08月 p07= 黒板博士と千布利雄を出会わせた男 (1) … 坪田幸紀 p7-8
1986年09月 p10= 黒板博士と千布利雄を出会わせた男 (2) … 坪田幸紀 p10---12


エスペラントを普及すること

今の日本エスペラント協会の自己紹介は次のようになっている。

エスペラントを普及発展させることにより、国際相互理解を促進し、エスペラントを媒介とする文化を発展させ、またエスペラントに関する学術を進行する(ママ)ことを目的としています。

https://www.jei.or.jp/gaiyou/

関西エスペラント連盟も似たような目的となっている。

国際語エスペラントを諸国民の平等な相互理解の精神にのっとり普及・活動すること、及びその活動を通じてエスペラント文化の創出に寄与以することを目的…

http://www.kleg.org/etc/kleg.htm


エスペラント普及会は次のように述べている。

言語の障壁を取り除き、世界の平和と人類の和解を促進するため、各国語の尊重とともに、世界共通語エスペラントの国際的実用化をめざして活動を進めます。

https://oomoto.or.jp/wp/esperanto/


ここにも、協会のページにもザメンホフの「ザ」の字もなく、ホマラニスモの「ホ」の字もなく、ザメンホフの思想を伝え・広め・実現するということを掲げた有力な団体は存在しないということになるだろう。


確かにエスペラントザメンホフという「シバリ」があれば、会員の学習活動は窮屈になると思うし、却ってエスペラントの普及はより困難になるとは考えられる。そうであれば「文化」とか「相互理解」の内実などが問われることになる。
「文化」団体が、自国や特定の民族、言語の優越性(あるいは劣等性)を喧伝したり、人々を国家主義や何らかの権威に従わせることを目的とするような活動をも許容するかどうか。そのことが「文化」と矛盾しないのか。極端な例では、その団体のテーマである文化活動をも否定するような活動・破壊活動を容認するかどうか。
日本は戦争や国家主義が文化の敵であると学んだのではなかったのか。