エスペラントの中立性の確保の意義?

id:Mukkeさんの記事から来られた方は、エスペラントの中立性についてに書き直しましたので、そちらにもいらしてください。不細工ですみません。


あるメーリングリストの投稿に触発されて。

中立性よりも大切なこと

エスペラントの中立性の確保ということが、エスペラントの普及の上で一つの課題になるのだという。
いったい誰が、なぜエスペラントの「中立性」などというものを要求するのか、聞いたことがないのだが、不思議なものだ。
私にとっては「中立性」よりも「習得と使用の容易さと明瞭さ」のほうが余程大切だ。



歴史から切り離された「言語」そのものとしての中立性

歴史から切り離された「言語」そのものとしての中立性。つまり、言語体系・語彙などいう、人間関係から切り離されて抽出された教科書的な「ことば」について、エスペラントが各民族語や母語から、等距離であるという中立性のこと。日本語・中国語・ペルシア語・ヒンドゥー語・アメリカ先住民の諸語・アフリカの諸語・ヨーロッパの諸語から等しく離れていて、習得したり使用したりするのに同じ程度困難を覚えるような等距離性のこと。
そんな中立性などありえる訳がなく、そのような中立性を目指したり・求めたり・標榜したりすることは、不可能であるがゆえに無意味であり有害ではなかろうか。アルファベットを使用して・左から右に書いている時点で既に中立ではないと言わねばならない。

歴史的かつ政治・経済的な中立性

歴史的かつ政治・経済的な中立性。これは例えば英語・フランス語・ドイツ語、そして日本語(もしかしたら北京語)など旧植民地の宗主国が、その植民地に対して自国の言語を強要したということに対して、そのようなことが歴史的には経験していない言語という意味での中立性である。
または、その言語を学ばなければ、社会的に不利になるというようなことがない、という意味での中立性である。
そのような意味での「中立性」はエスペラント以外の多くの言語も有しているところであるし、逆にエスペラントはヨーロッパ系の言語であるから、前の例で言えばアジアや他の非欧大陸の諸語のほうが余程「中立的」である。


言語への信頼か信仰か

言語とは不思議なものである。人は言語を通じて真理に到達しえるのであろうか。ここで言う「真理」とはとりあえず、「認識」内容が「外界」(認識対象)の全ての事物を正しく反映しているということ(検証方法はどうするか別として・抽象的な問いとして)を言う。われわれは言語にしがみついて真理に到達しようとする。真理に到達し得ないということですら、言語を用いて「認識」し「表現する」のであるから、人間は「追究」するかぎり言語を信頼しているといえよう。
実際的に言語に「中立」はあるのだろうか。それは文法書に中立はあるか、ということではなく、結局その言語を使用する人々が「中立」であるなどということがありうるか、ということに帰着せざるを得ない。
特定の言語を持った人々が、他の特定の言語の人々を抑圧したり支配したりしたことや特定の言語の背景に巨大な社会的な力(資本や宗教、その他)が存在する、ということを以って「言語の中立が侵されている」とするなら、エスペラントへの「中立性」の要求は「人間不信」に基づいていると言わねばならない。エスペラントが「中立性」を体現できると信じているとすれば、それは空想的で原始的(幼稚)な言語を介した人間性信仰と言わねばなるまい。
仮にエスペラントが何か「(言語として)完全な中立」を体現している言語であるとすれば、その言語を解する人々が異なる利害を有し・異なる見解を有し・異なる行動をとることを、中立信仰者たちはどのように言い訳するのだろうか。「中立言語」と人を殺す兵器とは両方とも手に持つことができるのである。




いったい何を期待して、エスペラントに「中立性」を求めるのか。ありえない「中立性」がそこにあるかのように信じ口にすることは、いったいエスペラントや人間諸関係に利益をもたらすのであろうか。



追記

結局は人。ザメンホフの望んだであろう中立性

確かに、スル・ラ・ネウトララ・リングヴァ・フンダメント(中立な言語の基礎の上に)と言って、ニュートラルであることをザメンホフは望んだようだ。また、現にエスペラントは「中立」を標榜してもいる。
下に、いくつか紹介しておいたが、エスペラントのの中立性はそれ自体が目的ではなく、また魅力でもない。無国籍性・非民族性・非宗教性による中立の雰囲気や、そして何よりそのエスペランティスト自身の相互寛容性・もしくはその志向こそがエスペラントの「中立性」の内容であると言わねばならない。
もちろんザメンホフは「完全な中立性」について言及してはいるが、それは彼自身の個人史から了解せられなければならないことであって、引き継がれるべきはその内容ではなかろうか。
下の引用の最後にあるように、私自身「中立性」を意識してエスペラントを使ってみたことは(幸い)一度もない。

エスペラントの中立に関する諸言及
2003年2月21日国際母語日に際しての国際エスペラント協会の声明

 国家間において中立的な言語であるエスペラントは、各々の言語権を確実なものにする手段であります。

lernu!

中立
エスペラントはどこの国、どこの国の人たちにも属していません。それゆえ中立的言語として機能するのです。

……こうして中立な言語の基礎に基づく良い考えを支持し、民族の間の壁を取り払い全人類に友情を創り出すことを目指します。

Bona kaj malbona prononcadoj (エスペラント国の旅より)

 ……よい発音は地理的に中立な発音です。それは局地的な特異性、地域、あるいは民族を分からせない発音です。

http://www.geocities.jp/akvoju/vel/lec03.html
ザメンホフ『人類主義宣言』

 エスペラントの本質は完全な中立性にあり、エスペラント主義の思想は曖昧な友愛の感覚や希望だけを提示するものである。中立的な言語の基盤の上での出会いが自然にそれらを生み、全てのエスペランティストがそれについて望むがままに仲介するだけでなく、普通にそれらを受け入れるか、受け入れないかを選ぶ完全な権利を持っている。……
 違う言語や宗教の人と連絡しあう場面では、人は中立的な言語を使うように努め、中立的な倫理や風俗に従い生きなければならない。私は同じ国民や同じ市民のためには住民の多くが話している国家の言語や文化言語が中立言語の役割を果たしていると認識している。しかしそれは多数民族への少数民族の便宜上の譲歩であり、それを被支配民族が支配民族に負った屈辱的な貢物ではないと見なさなければならない。私は、多様な民族間で戦っている場所では望ましくは公共機関で中立的人間言語が使われるべきであり、少なくともそこでは、全ての希望者が文化を学び排外主義的ではない中立的人間精神でその子どもを教育させることができるように、民族的な文化機関の他に特別な学校や中立的人間言語の文化機関が存在すべきだ、と認識している。

国際語エスペラント運動に関するプラハ宣言 1996

 言語間に力の不平等があることは、世界の大部分の人々にとって、言語的な危機感をもたらし、ときには直接の言語的抑圧となっている。エスペラントの共同体では、母語の大小や公用・非公用を問わず、互いの寛容の精神によって、中立の場に集っている。このような言語における権利と責任の間のバランスは、言語の不平等や紛争に対する新しい解決策を進展させ評価するための先例となるものである。

lernu! より

エスペラントに内在する思想とは、すべての人々が隣人のうちに人と兄弟のみを見出すことができるよう、中立の言語的基礎のもと、民族間の障壁を取り除き、人々をより近しくさせることである」 [L・ザメンホフ,1912]

lernu! より

エスペラントを使っている一般の人々は、「中立の言語的基礎」といったような美辞麗句についてはめったに考えないものです。他の国や、他の文化を持つ人々との対話において自分を自由、かつ自然に表現することが可能である事を素朴な喜びとしているのです。