「国際語」エスペラントの誕生の直接の背景は、その生みの親ザメンホフの暮らしていたポーランドが、多言語の環境にあって*1、なおかつ帝政ロシアによる支配の下、厳しい言語統制が敷かれていた、ということが挙げられるであろう。
しかし、もう一方で、当時の東欧でのユダヤ人の置かれていた状況というものがユダヤ人ザメンホフの脳髄に鋭く深い傷と恐怖とを刻み込んだであろうこと、それが平和への渇望を彼に焼き付けたことも想像するに難いことではない。
ユダヤ人とかユダヤ人の歴史には詳しくないので、ここではゲットー、ポグロムなどを Wikipedia などから拾い読みしてみる。
ゲットー
ゲットー(ghetto)は、ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区。第二次世界大戦時、東欧諸国に侵攻したナチス・ドイツがユダヤ人絶滅を策して設けた強制収容所もこう呼ばれる。
……
特にロシア帝国のユダヤ教徒居住区と、特にチェルニウツィー、レンベルク(現リヴィウ)といった大都市のユダヤ教徒地区は、様々なユダヤ教徒への差別化政策(居住地制限など)が採られたため、このような通称で呼ばれることがある。
……
ゲットーは時勢によって性格を異にし、ヴェネツィアのゲットーのように比較的裕福な住民よるものがあった一方で、ひどい貧困状態にあり人口増加にともなって街路が狭く住宅が高層密集するものも存在していた。ポグロムから身を守るために内側から、あるいはクリスマスや過越そして復活祭の際にユダヤ人が出てこられないように外側から、ゲットーの周囲には壁が築かれた。
……フランス革命後、 ……ナポレオンがユダヤ人解放とともに各地のゲットーを解放した。……しかし、ナポレオン失脚後、再びユダヤ人の生活には制限がかけられるようになり、アメリカへ移住するユダヤ人が大量に生まれることになった。また、他方でロシアや東欧諸国のゲットーは20世紀にいたるまで存続した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC
ポグロム
ポグロムという言葉はほとんどわれわれは耳にしたことがない。
ポグロム(погром パグローム 猶太虐殺)とは、ロシア語で、破滅・破壊を意味する。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。
歴史的にこの語は、ユダヤ人に対して、自発的、計画的に、広範囲に渡って行われる暴力行為と、同様な出来事について使われる。ポグロムは、標的とされた人々に対する、物理的な暴力と殺戮を伴っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%A0
……
http://www.trotsky-library.com/photo/02/pogrom.htm
「ポグロムが近日中に起こることは誰にでも予知できた。ポグロムのアピールが流布され、公式の『県報』には血に飢えた記事が載り、時には特別の新聞が発刊される。
まず最初に血祭にあげるべき人物と家宅のブラックリストが作成され、全体の戦略方針が練られ、近郊からは一定数の飢えた禿タカどもが召集される。
予定された日になると、寺院で祈祷が行なわれる。主教が式辞を述べる。僧侶を先頭に、たくさんの国旗を掲げ、警察署から持ち出したツァーリの肖像を手にした愛国的行進が始まる。……手始めにガラスが割られ、手当たりしだいに出会った者に殴りかかる。居酒屋に押し入り、際限なく飲む。軍楽隊はポグロムの軍歌でもある『神よツァーリを守りたまえ!』を飽きずにくり返す。
きっかけが見つからなければ、でっちあげられる。屋根裏部屋に踏み込んで、そこから群衆めがけて、たいていは空砲なのだが、発砲する。警察の連発拳銃で武装した親衛隊は群衆が恐怖のために狂暴さを和らげることのないよう気を配っている。彼らは発砲の挑発に応えて、あらかじめ目星をつけておいた建物の窓に一斉射繋を浴びせる。商店は破壊され、愛国者の行進の前に、掠奪されたラシャや絹の服地が敷きつめられる。……やりたい放題、すべてが許される。富と名誉、生も死もすべて意のままだ。一度やってみたい。だから老婆をピアノといっしょに3階の窓から放り出す。乳児の頭を椅子でめった打ちにする。群衆の眼の前で少女に暴行する。生きた人間の体に釘を打ち込む、等々。家族を全員皆殺しにする。家に石油をかけて火事を起こす。窓から飛びおりた者にはすべて、舗道の上で棒で殴りかかる。群れをなしてアルメニヤ人の養護施設に侵入し、老人、病人、婦人、子供を斬り殺す、等々。……
(トロツキー『1905年』「ポグロム分子の策動」より)
凄まじい。
ザメンホフもポグロムを逃れて、一家で隠れ家にこもった時期があったという。
エスペラントの第一回世界大会はフランスで開催されたが、それは迫害されるユダヤ人に同情してというものではなく、またフランスではユダヤ人差別や迫害について、あまり理解や同情は得られなかったらしい。
ザメンホフ―世界共通語(エスペラント)を創ったユダヤ人医師の物語
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引用元サイトがなくなってしまったので、トロツキー『1905年』「ポグロム分子の策動」よりの続きを少し。
死者を目のあたりに見てたちまち白髪になってしまった青年。斬り殺された両親の屍に気が狂ってしまった10歳の少年。旅順包囲であらゆる恐怖を経験してきたが、オデッサのポグロムの数時間を耐えることができず、永遠に理性を失ってしまった軍医。『神よツァーリを守りたまえ!』。血まみれとなり、焼けただれ、気も転倒した犠牲者たちは救いを求めて悪夢の恐怖状態の中をもがいていた。ある者は死者から血だらけの上着をはいでそれをまとい、死体の山の中に1昼夜、2昼夜、3昼夜と横たわっていた。ある者は将校や掠奪者や警察官の前にひざまづいて両手をさしのべ、塵挨の中を這いずり、軍靴に接吻して助けを願い出る。酒気を帯びた高笑いが答える。『おまえらは自由を欲していた。これがそれだ』。ボグロム分子の地獄の政治的モラルはまさにこの言葉の中に言い尽くされている。血にむせびながら、浮浪者は突進する。なんでもできるし、なんでもやる。」(トロツキー『1905年』「ポグロム分子の策動」より)