alia Markovich kaj la Komunismo

ユーゴ紛争だとかバルカンの歴史とかの大衆向けの本を読んでいるのだが、まだよくわからない。NATOコソボ紛争セルビア空爆した頃(1999年)は仕事などが忙しくて、あまり関心をはらったことがなかった。
民族の解放、独立というテーマはアジアではインド、中国、そしてベトナムなど人類史上に輝かしい足跡を残したが、おなじテーマがバルカンでは隣人同士の対立の火種になってしまった。



それより最近知って驚かされたのは、哲学者ミハイロ・マルコビッチセルビア科学芸術アカデミーの覚書という民族主義的な文書に関わっていたり、ミロシェビッチを積極的に支持するのみならず、彼の党の副党首にまでなっていたことだ。ちなみにミロシェビッチの妻もマルコビッチで、二人ともM.マルコビッチと書ける。
哲学者マルコビッチといえば、ユーゴのプラクシス派の哲学者として、スターリン主義を超え、権威主義とは別の次元で自分の頭で考えるマルクス主義哲学者として日本でもいくぶん知られた人物であった。

表現された思想と実際の行動とが異なる、研究対象と人格とが合致しない、というのは司法関係者が犯罪を犯すのと同じで、思想と人格は必ずしも一致しないというのは、人類の今のこの段階では仕方のないことなのかもしれない。



マルクス主義といえば、人類を一切の暴力と抑圧から解放する運動のはずであるが、その正反対の転帰をたどった事実には残念ながら枚挙にいとまがない。そのことで非マルクス主義の一部や全部が正当化されるというわけではなかろうが、問題は何主義であろうと・何教であろうと、現実的にどうしてさまざまな人権抑圧が発動してしまうか、である。それは自称・他称「社会主義」体制であるか否かにかかわらないことである。
差別的・殺人的思想や人権抑圧の命令が組織的に発動するには、(収容所などの閉じられた場でなければ)一定の集団(大衆)の支持が必要だ。つまり「物質的基礎」がなければ何事も実現しはしないのである。普通では共感どころか理解すら得られない思考に大衆を従わせるにはどのような「物質的基礎」が必要だろうか。
まだ途中までしか読んでいないが、「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から (岩波新書 新赤版 (973))を読んでいて思ったのは、
一つには殺人兵器の存在と訓練された武装集団の存在である。
二つには秘密警察のような暴力組織の存在である。それは暴力集団の意図的な放任や使用でも同じである。反対者を見せしめにもできるし、直接に脅迫できる。
三つにはマスメディアの一方的な権力もしくは暴力による支配である。
もうすこしまとめると、暴力と扇動である。とりわけ暴力の前には思想は直接には無力である。
ソ連でも中東の某国でも、極東の某国でも、これらの二つ・三つが支配的な集団に握られている/握られていたはずだ。



だから、われわれは
一つには厳重な集団的・多角的な武器や軍隊の管理と監視、将来的には殺人兵器の全廃、武装集団の必要のない世界を意識的に目指すことが求められるだろう。
二つには秘密警察の全廃と暴力の徹底取り締まり。
三つ目にはマスメディアの集団的・多角的監視と統制。
こうしたことが必要となると思う。つまり、暴力と扇動が作動しない、あるいはさらには作動し得ないシステムを作らねばならない。作れなくても目指さねばならない。