その方面の専門家でもなければ、勉強をしたこともないが、言語は貨幣にさも似たり、というのが最近の読書の感想である。
『言語戦争と言語政策』には、次のような章がある。
- 作者: ルイ=ジャンカルヴェ,Louis‐Jean Calvet,砂野幸稔,今井勉,西山教行,佐野直子,中力えり
- 出版社/メーカー: 三元社
- 発売日: 2010/05/01
- メディア: 単行本
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第18章 平和主義幻想とエスペラント 286
歴史的道標 286
http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/267.htm
エスペランティストのイデオロギー 291
社会言語学的アプローチ 295
数字はページなので300ページのこの本の10ページあまりしか占めていないのである。まあ、そこだけ読んでみたのだが。……以下は感想と言うか、読みというか。
世界ではドル、ユーロなどが強くて、弱小通貨は対等に取り扱ってもらえない。両替すらしてもらえない。そこでエスペラントという世界通貨を普及させれば……というアイデアなのだ。しかし、権力が通貨を通用させ流通させるのであるから、エスペラント貨がドルやユーロをしのいで流通することはありえないのである。貨幣の「たとえ」は僕だが、書いてあることは概ねそういうことだと思う。
英語が強力に流通しているように、国際的にはドル建てで借款を背負ったり、ドル建てでないと決済できなかったり、というわけだ。エスペラントにはそういう「力」はない、というのは、誰もそういう力を付与しないからだろう。
さて、貨幣は国-際的に取引されるだけでなく、国内においてはさまざまな地域通貨(藩札?)を駆逐して単一の「国民通貨」を形成しようとする。もちろん、それは権力を以って形成されるのである。同時にそれは「国」の「必要」でもある。ここから、国民通貨(国語)=国民文化という幻想なども成立する。
われわれは、「ドル建て」で世界を見るのではなく、「エスペラント」という国際通貨で世界を見たい。それが、完全万能にではないにしても、世界中の町々の路地裏にまで親しく浸透していくような気がして、これを使っているのではあるまいか。
後日、もうすこし読んだものを整理して書いてみたいと思う。