公用語・国際共通語のマナー / Oficiala lingvo kaj la gxentila maniero de la lingvo internacia

Oficiala lingvo / 公用語 (Nur japanlingve)

前々から日本の公用語・第二公用語を英語にす「べき」という意見はあるようだが、ユニクロ楽天の英語社内公用語化ニュースは、やっぱりインパクトがあったようだ。
あまり熱心に探していないが……。以下は必ずしも同意見で掲げたものにあらず。


自分の会社の公用語が「グローバル対応のため外国語になる」としても、僕は反対だから、「履き違えている」なんて書かれると、擦り寄って行きたい気分になる。ホントはその前に、その会社の「グローバル」「化」って何なのか、よく考えてみなくちゃいけないはずだが。「グローバル化」なんて労働者にとっては錦の御旗にもなんにもならないのである。

リンガ・フランカのルール(内田樹氏)/ La legxo de la lingva-frankao en 21a jarcento (de D-ro Ucxida-Tacuru)

  1. Neniam korektu la prononcon de la parolanto.
  2. Neniam korektu la eraron gramatikan de la parolanto. (Ĉar vi jam komprenis vian parolanton, do estas sufiĉe, do ne korektu lin/ŝin.)
  3. Tamen oni povas reparoli la frazojn pli bonigite, kaj daurigu la konversacion.

提案されているルールが面白いので、引用して紹介したい(改行などは改変してある)。エスペラントもそのようにあるとよいと思うし、現にそのような雰囲気で話されていると思う。

今日のリンガ・フランカとしてのプア・イングリッシュ

 では、「英語」ではないところの「国際共通語(リンガ・フランカ)」とは何か。福岡伸一先生がこんなエピソードを紹介していた。
 アメリカで分子生物学の学会があった。福岡先生がその開会セレモニーに参加したとき、学会長の挨拶があった。学会長はドイツ人の学者であった。彼はこう言ったそうである。
 「この学会の公用語はEnglish ではありません」
 会場はどよめいた。ではいったい何語で学会は行われるのであろうか・・・学会長はこう続けた。
 「この学会の公用語はPoor Englishです」
 私はこの構えを支持するものである。Poor English はシェークスピアやポウを読むための言語ではない。それは「英語を母語としない人々同士が意思疎通を果たす」という目的だけに限定されたリンガ・フランカである。

http://blog.tatsuru.com/2010/05/12_1857.php
リンガ・フランカのルール

 Poor Englishをオーラル・コミュニケーションの場で用いる際のいくつかの規則をここで定めておきたい。
(1) 決して話者の発音を訂正してはならない
(2) 決して話者の文法的間違いを訂正してはならない
 「発音の間違い」や「文法的な間違い」が指摘できるということは、「正しい発音」や「正しい文法的表現」が「正解」として知られているということである。正解がわかっているからこそ、それが「誤り」であるとして訂正可能となるのである。
 正解がわかっているということは、話者が「何を言いたいのか」はすでに知られているということであり、それはPoor English においては十分なコミュニケーションが成立しているとみなされる。
(3) ただし、自分より話すのが下手な人の「言いたいこと」をより適切な文に「言い換え」て対話を継続することは許される。
(4) Poor English は学校教育のどの段階から開始しても構わないが、教師は「英語を母語としないもの」とする。
とりあえず、私が思いついたルールは以上の4点である。


 非英語圏の英語教育は「リンガ・フランカ教育」と「英語教育」に二分すべきだと思う。この二つは別のものでなければならない。日本の英語教育が失敗しているのは、この二つを混同しているせいである。

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このルールは一見して素晴らしい。素晴らしいが、別に特別なことではない。仲良くしようと思っている相手、友達になろうと思っている相手、意思を疎通したいと思っている相手、そんな平和で友好的な関係を望んでいる人たちが、言葉に一定の障壁を持ってしまっている場合、当然に上に述べたようなルールでしゃべるに決まっている((1)から(3))。
大人と幼児がしゃべるとき、方言が違う人たちが話すとき、友好関係にある外人同士が語らうとき、いちいち相手の「間違い」を指摘したりはしない。相手の意を汲み・誤解でないことが確認できていれば、話は進んでいくのである。

リンガ・フランカは話者の上に人を作らず、話者の下に人を作らず。

このルールの精神は上に述べたことだが、それは裏を返せば、英語なりドイツ語なりエスペラントなり標準語(脱方言)がしゃべれるからって、偉そうにしない、自分のレベルの上にも下にも序列を作らない、上手な人の前で萎縮しない・下手な人を馬鹿にしない、そういう平等な心情であり続けることであろう。
そうすると、エスペラントは本当に百年の昔からこのルールを脈々と実践してきた、すばらしい現代のリンガ・フランカであると言えまいか。