El twitter

A君は快活でしっかりした子だが、担任のB先生が好きでない。だからA君はB先生の前では無口で、積極性も示さない。それゆえB先生はA君について「元気がなく、積極性に欠ける」と評価を下す。A君の態度の原因はB先生にあるのだが、評価の権限をもつB先生において自身の存在は透明化されている。

http://twitter.com/#!/hahaguma/status/145297039809458176

Lernanto A estas gaja kaj saĝa, sed li ne ŝatas instruiston B. Tial A estas malkonfidencema kaj ne montras sian aktivecon antaŭ instruisto B. Do, tial la instruisto B pritaksas pri A, "Li ne havas viglecon, mankas pozitiveco ĉe li". Kvankam la sinteno de lernanto A dependas instruiston B, ĉe B, kiu havas axutoritaton taksi lernantojn, la ekzisto (koncerno) de B mem malvidebliĝis.

A君がぼんやりさんに見えるのは、見ている自分のせいかもしれない。
Eble tio estas kaŭze de mi, ke A ŝajnas malklara knabo.



おもしろい文だったので、訳してみたのだが、この文は。
はっとさせられる、というか「うーむ」というか、でも、そういう言い回しをする利点や必要性が社会学者でない私にはわからない。その「自身の存在は透明化されている」というところ。
日常会話だと、「あいつ、あかんわ」「そりゃ、お前が嫌われてんねんて」「せやろか」と展開する(可能性がある)。
いずれにしても、「教員だから公正・公平」とはかぎらないし、上の文では、教師に向かって披瀝された部分だけを教師は見ていることになるが、教師による観察ってそんなもんなんだろうか。
あるいは、学校という校長を頂点とした評価=被評価システムの中での、「評価者の自己透明化」つまり評価の結果が、評価者から切り離されて、客観的なものとして自立する「評価結果崇拝」のようなことを先生は言いたかったのだろうか。
それともA君の不幸なめぐり合わせのことを?