「私の正月」(小林一茶)

S-ro Vastalto laboris kun Bierfaristo.

    La unua ĉapitro de "Mia printempo" (Ora ga haru) verkita de KOBAJAŜI Issa (Kobayashi Issa).

http://ow.ly/slqU3 #hajko #haiku #esperanto

https://twitter.com/vastalto/status/420569800767995904

「おらが春」の冒頭エスペラント訳を読んで、さらに原文をネットで探して、初めて知ったことがあった。
小林一茶の「めでたさも 中くらい〜」という句は「中くらいかな」と思っていたが、「中くらい」とある。勘違いしていた。
「おらが春」とはポカポカあったかくなってきた春だと思っていたが、正月の事であった。勘違いしていた。
その句は独立単独で詠まれたか、または雑多な句集の中の一つに過ぎないと思っていたが、前段に面白い話があった。知らなかった。
University of Virginia Library Digital Curation Services の資料「おらが春」を参考に、上のエス訳に対応する部分を現代語我流解釈(訳ではない)。

 昔、丹後の国の普甲寺というところに、浄土信仰の厚いえらい和尚さんがおられた。年の始めは世間はお祝い事でにぎやかなので、自分もお祝いをしようと、大みそかの夜、一人だけ自分の寺に置いている小僧に手紙を預けて、翌朝元日の夜明けにはこれこれこのようにするんだよと細かに言い聞かせて本堂に泊まらせた。
 まだ薄暗いなか、元日初めての鳥が鳴くのを耳にした小僧はガバッと跳ね起きて、和尚さんに言われた通り表の門をドンドンと叩くと、中から「どちらから来られた」と和尚さんが尋ねる。「西の阿弥陀仏から年始のあいさつの使いの者でございます」と答えるより早く、和尚さんははだしでおどり出て、左右の門をさっと開き、小僧を上座に座らせる。
 そして昨日預けておいた手紙を和尚はうやうやしく押戴き、声を出して読む。「この世界は苦しみに満ちているので、はやく我が国に来なさい。あなたがくるのを聖人たちは待ち望んでいます」と読み終えると、「おゝおゝ」と声を出して泣いたとか。
 この和尚さん、自分で巧みにしつらえた悲しみに、自分で嘆きながら、涙で濡れた正月の衣をしぼり、そこからしたたる自分の涙をみて正月を祝うなどとは、どうかしているのではないかとも思われるけれども、一般の人々に対してはいつも平静を装っていなければならないお坊さんとしては、自分のためにやるお祝いは大げさすぎるくらいでなければならない、ということであろう。


 ひるがえって、自分たち家族はといえば、俗世間に埋もれて暮らしているので、鶴亀に例えて「めでたいめでたい」と言うようなお祝いも、厄払いの文句のようで空々しく思われるし、から風が吹けば飛んでしまうようなボロ家は、ボロ家らしく、門松も立てず、すす払いもせず、雪の山道の曲がったのをどうしようもないのと同じように、今年の正月もあなたまかせの他力本願で迎えるのだ。


めでたさも 中くらいなり おらが春
一茶

ちなみにだが、上の句の直後に

こぞの五月生れたる娘に一人前の雜煮膳を居へて


這へ笑へ二ツになるぞけさからは

http://etext.virginia.edu/japanese/issa/KobOrag.html

Kaj puj poste de supra poemeto, aldonis li:

Metante unu porcion da novjaran supon
Antaŭ mia bebino, kiu naskiĝis en la lasta majo (en la lasta jaro)
Mi alparolas:



Ridu, rampu!
Vi estas duxan) jarojn
Ekde hodiaŭ.

とあるが、六月には(ということは、1歳1ヶ月になるかならぬか)
Kaj tamen en la unio: (ne tradukaĵo, sed interpretaĵo)

 樂しみ極りて愁ひ起るはうき世のならひなれど、いまだたのしびも半ばならざる、千代の小松の二葉ばかりの笑ひ盛なる緑り子を、ね耳に水のおし來るごときあら/\しき痘の神に見込れつゝ、…益々よはりて、きのふよりけふは頼みすくなく、終に六月二十一日の蕣*1の花と共に、此世をしぼみぬ。
 母は死顏にすがりてよゝ/\と泣もむべなるかな。この期に及んでは、行水のふたゝび歸らず、散る花の梢にもどらぬくひ事などゝ、あきらめ顏しても、思ひ切がたきは恩愛のきづななりけり。



露の世はつゆの世ながらさりながら
一茶

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Post klumino de ĝojo venos malĝojo. La aĝo de mia filineto estas ankoraŭ nur unu jarojn. Ŝi restas ankoraŭ en ridema vivo, sed subite variola dio frapis ŝin kiel subita inundo.
Variolo baldaŭ foriros, kaj post resaniĝo festetos ni.... Komence ni pensis tiel, tamen tago kaj tagon ŝi konsumiĝis. Kaj fine ŝi foriris kiel flora malŝvero.
La patrino ploris alpremiĝante al la kadavreto, tio estas nature. Neniam revenas akvo forfluinta, neniam remetiĝas falintaj florfolietoj al la branĉeto. Mi tenas trankvilan mienon, sed mia koro disŝirata.



En rosa mondo,
Jes, rosa vivo
Tamen, kaj tamen...

と、子を天然痘かと思われる発疹の病で亡くしている。
子をなくす話はいつの世も涙を誘うものだ。

Ĉiu rakonto pri ido-perdo larmigas min.






 

*1:あさがお、むくげ、ふよう、どれも6月中下旬の花としては時期が早すぎる気もする