朝比賀昇のエスペラント運動観(知らんけど)

エスペラントに色はナシ

朝比賀昇氏はたとえば、「エスペラントにとっての100年」において、プロレタリアエスペラント関係の人たちを紹介するのに、次々と特高に捕まった経過に言及はするけれど、それほど好意的な言葉は使わず、「ザメンホフがどのような理想からこの言葉を創案したにせよ、言語自体が創案者の手を離れて独り歩きをし始めたことは興味深い事実である」などのように、プロ・エスの人たちが命がけで闘ったことには関心のなさそうな表記をしている。
また、「エスペラント自体は思想をもっておらず、そのエスペラントを使うエスペランティストの考え如何によって、エスペラントは戦争反対の道具にもなれば、戦争を煽る道具にもなるのである」、とも述べている。

この彼のエスペラント観によれば、高橋邦太郎という古参の論を反駁することは難しい。すなわち「エスペラントは単なる言語にすぎないのであって、コミニュケイションの便利な手段だということ以外の、特定の思想に結びつけるべきではない……日本を勝たせる為にはエスペラントを戦争に利用しても構わないと信じる。この観点から、現在の日本の態度は議論の余地なく正しいものであり、これ以外の方法では東洋ないし世界に真の平和をもたらしえないことを、エスペラントによって全世界に認識させるべくたち上がり、努力すべきことが緊急である。」
なので、争うところは「正しいもの」「真の平和」くらいにならないだろうか。
私としてはそれでいいと思うし、主戦場は「正しさ」や「真の平和」が植民地支配や侵略戦争でありうるかどうか、ということになり、それはエスペラント「語」とは違う土俵での闘いになるはずである。
ちなみに、高橋邦太郎氏は、世界エスペラント協会の機関誌に投稿した「不平児」氏に対して、非国民・売国的などと非難しており、氏にとっては「日本」が重要であるという思考パタンが支配していることがわかる。

エスペラント報國同盟には厳しい朝比賀

しかし、エスペラント報國同盟やその活動については手厳しい。
「国同盟は…中国人スパイのさらし首など20葉の写真にエスペラント文の説明をつけたパンフレットを出して、エスペラントを恥ずべきさらしものにした。」
「中国侵略を正当化し、戦争を押し進める仕事にエスペラントを使ったことは、日本エスペラント運動史上に拭い去ることのできない汚点を残した。」

エスペラントエスペランティストと戦争

「狂信的愛国心が日本を敗戦に導いたことや、ザメンホフの理念をねじ曲げてエスペラントを戦争に利用したことを、日本のエスペランティストは正式に反省したことは唯の一度もなかった。あの頃は、日本人全員が日本政府による偽りの発表にだまされて、戦争熱に浮かされており、愛国心にかられてあのような行動をとったのだから仕方がない、と報国同盟の行動を正当化する考えを述べる人も少なくない。しかしながら、日本人であるまえに、一人の人間として、戦争つまり人殺しに加担したこと、侵略を煽動・援助・賛成したこと、に対して恥ずべきではないだろうか。」
「私たちは政府や軍人がどんなに信用できないものであるかを骨の髄まで思い知らされた。私たちは、エスペラントを通じて世界の人々の気もちや、世界情勢を正しく知り、政府の目によらずに、自分自身の目で世の中を判断する必要がある。それもまた、エスペラントを活かす一つのみちなのであり、…」

正しい認識は?

戦争に利用されたのはエスペラントだけではなく、文学も絵画も科学も利用されたのであって、それは文学・絵画・科学・エスペラントのせいではなく、文学者・画家・科学者・エスペランティストの責任である。だから「○○であるまえに、一人の人間として」と言わざるを得ないのだが、問題は「正しく知り」「自分自身の目で」ということが何によって可能なのか、ということである。
今日、「自分自身の目で」歴史を「正しく知った」結果が、皇国史観であったり、歴史修正主義であったりするわけであるから、「一人の人間」として自己反省してみるだけでは全く足らないのである。


ヘーゲル主義者のわたしとしては、真の文学、真の絵画、真の文化、真の科学、そして真のエスペラント運動の概念を十全に構築すること、逆に言うと、他者の尊厳を否定するような文学、絵画、文化、科学はそれ自体文学・絵画・文化・科学を否定するもの(核兵器を容認して製造してしまうような科学技術は、現実を媒介して当該の科学技術の存立自体を否定するように)という概念の確立が求められると思う。
思うが、実際には人権尊重・個人の尊厳を絶対的に基礎にした(歴史・社会・自然)科学の成果をエスペランティストが身につけることがエスペランティストである前に一人の人間としての責務であろうことは繰り返し強調されなければならないだろう。

朝比賀のエスペラント運動観

朝比賀の他の物をきちんと読んではいないが、彼が、その「エスペラント観」に拘らず、報國同盟のことをエスペラント運動の立場から否定的に言うのは、エスペラント運動が単にエスペラントの普及というだけではなく「一人の人間」としてなすべきこと・譲ってはならないことを持っていると考えていることの証左ではある。それはザメンホフのホマラニスモにつながるものであろう。
(「一人の人間」であるよりも「一人の日本人」というカテゴリーを重視する人もおり、ただ「人間性」なる単語を足場として据えるだけでは難しい。やはり現行の日本国憲法や人権宣言等の到達を丁寧に踏まえる、それらについて知悉することが重要になろうか。)