あとで、自分の意見というか印象を追加しました。そのエスペラント訳は追加するかどうかわかりません。「宣言」を読めば読むほど、これに労力を割くのがもったいない気が今はしているからです。
エスペラントのWeb新聞「Liberafolio」にもインタビューが載っているように、La Manifesto de la Mondpopoloというのが発表されたようだ。
過去には、プラハ宣言とか、ラウマ宣言などがある。いずれも Manifesto という単語を使っているが、同じく宣言と訳される単語には Deklaro や Proklamo もある。Manifesto とではどういう違いがあるのだろうか。PIVを見てもさしたる違いはわからない。
ChatGPTにたずねてみると、
簡単に言うと:
- Manifesto: 理念や目標を詳述し、改革を訴える。
- Deklaro: 自らの立場や意見を簡潔に表明する。
- Proklamo: 重要な事実や情報を公式に発表する。
だそうで、Manifesto が一番過激ではある。
■「世界人宣言」
「世界人」という訳もどうかとおもうが、翻訳機の助けも借りて、下に訳出してみた。
世界人宣言
J. ゲンベルク
2025.4.14 版
(画像:世界人の旗)
(エスペラントの旗とは色が反対の旗。エスペラントの旗の白い部分は緑で、緑の部分は白です。---日本語訳者)はじめに
この宣言は、誰かを説得したり改宗させたりすることを目的としてはいない。この宣言は、エスペラントの新たな役割を提示することを目的とし、既に同じ、あるいは類似の意見を持っている人々、あるいはエスペラントについて知っていればそう思うであろう人々を対象としている。たとえ意見が合わなくても、問題ではない。私たちはライバルではなく、引き続き同じエスペランティストなのだから。
この宣言はラウマ宣言に大きく影響を受けており、両者には多くの共通点があるが、ラウマ宣言がエスペラント話者を言語的少数派とみなしているのに対し、この宣言は私たちの文化の哲学的基礎について異なる出発点を提示するものである。アイデンティティの力
人間は社会的な存在である。これを目的に、我々の表現豊かな眼、声帯、習得された社会規範たる文化が進化してきた。文化からはアイデンティティが生まれる。すなわち人間として、特定の集団の構成員として自らを規定する。これはすべての共同体集団(民族、宗教、政治、趣味等々)の基盤であり、その集団の成長と持続に必要な価値や方向性、強固さを提供するものである。十分に強いアイデンティティ、自己規定がなければ、集団というものはあるいは空疎なものになってしまうし、寛容性のない理屈の討論クラブになってしまう。
伝統的なエスペラント運動の危機
エスペラントの諸組織は縮退し、新しい参加者を獲得するための伝統的なやり方は、持続可能な結果をもたらしてはいない。伝統的な手法とは、学習手段の拡散普及、より積極的な勧誘、新しい議論等々が挙げられる。近い将来、エスペラント界が消滅し、エスペラントは言語愛好家や物好きだけが話す歴史的な珍品となるかも知れない。
過去には、伝統的な運動は、厳密に科学的/経済的なコミュニケーション手段としてのエスペラントと、平和、友愛、共通性という深遠な諸理念の擬-神秘的な表現としてのエスペラントという、二つの支配的な観点の組み合わせのため、隆盛の時期があった。こうした複数(実利実用主義と理想主義という)の立場というのは、簡単には結合しなかったし、伝統的な運動の黄金時代には、むしろ容易に無視される事実であった。
しかしながら、国際コミュニケーションにおける英語の勝利によって、この英語の発展に対して、伝統的なエスペラントの諸運動はより説得力を持って抗いもがこうと、言語的優位性と普遍的な言語権の議論に傾き始めた。このようにして(平和・友愛などの)諸理想は、単なるスローガンになり下がるまでに重要でなくなってしまった。エスペラントのアイデンティティは国際語または補助言語としての成功に結びつくようになった。しかしながらそれは結果として何かをもたらしたわけではなかった。満足のいく代替的な自己感覚(自己認識・自己規定)がなく、伝統的な運動は感傷的、敗北主義的で無力なものとなった。新しいエスペラントのアイデンティティに向かって
われわれが考えるのは次のようなことである。
1.エスペラントが世界の第二言語になるような「最終的勝利」への到達や公用語化、権威者による支持などは、われわれの反対するところではないが、われわれには関係のないことである。
2.英語や「イド」、その他の言語に対する対抗心はみっともない。
3.エスペラントはわれわれの共通言語であって、あるがままに美しい。それが国際語として適当であるかどうかはわれわれには関係ないし、(国際語にふさわしくするための)改革の要求にも関係しない。われわれが大事だと思うのは次のザメンホフが提唱したような諸原則である。
1.世界主義---われわれは同じ人間の家族に属していて、われわれはまずは地方や地域、国のアイデンティティに限定されないような世界市民であると自覚している。
2.平等主義---誰も他者の上に立たない。われわれは直接的であれ間接的であれ差別や恣意的な身分階層を受け入れない。
3.ヒューマニズム---社会的、政治的または経済的決定というものはすべて人間の福祉に貢献するものでなければならない。
4.民主主義---すべての人は、自らが関係する事柄について、その決定が及ぼす影響に応じて、その決定に直接参加する権利がある。人は必要に応じて、部分的または全体的に、投票権を権限のある人物に一時的に譲渡することができる。ただし、民主的な手続きによってその受権者が解任可能で、すべての決定が取り消し可能である場合に限る。
5.平和主義---紛争の解決や目的の達成のための手段としては、戦争と暴力は忌むべきで避けるべきである。意見の不一致は対話によって解決されなければならない。
しかしながら自衛と自衛のための準備は権利である。
6.寛容---異なるアイデンティティ、信仰・信念、生き方を持つ人々が、干渉や決めつけをすることなく、相互に尊重し、共存すること。
7.多様性---われわれはわれわれ独自の全世界的なアイデンティティと文化を育んでいるが、われわれのコミュニティーは(閉鎖的なものではなく)世界のすべての地域から発せられる、他のアイデンティティを持つ人々への好奇心の表現でもあり、他のアイデンティティを持つ人々の文化交流の表現でもある。それゆえ、われわれの目的は順に次のとおりである。
1. 上記の諸価値を、生き生きとした一貫性ある、柔軟でありながら明確な哲学へと変換することである。
2. 共通のエスペラントのアイデンティティを強化するために、この哲学を活性化する。
3. そのアイデンティティに基づいて魅力的な(サブ)カルチャーとコミュニティを構築する。
4. この(サブ)カルチャーとコミュニティを、より良い、より調和のとれた生き方として世界に提示し、人々が参加するよう促す。伝統的な運動は自らを政治運動であると定義している。それはすなわち、理性的な議論によって、エスペラントの利点を外部の人々に納得させる、ということである。(しかし)われわれは変革的で、先駆的な運動を目指す。友好的な雰囲気の中で個人を深く成長させ、私たちの理想を主張するだけでなく、それに従って生きること(がねらいである)。
この目的のため、世界における自分たちの役割をどのように見なしているかを明確に表現するために、次のように自称する。われわれは世界人である。
■わけがわからない「世界人宣言」
これ自体を理解しようとしてよくよくよくよく読んでみるのだが、エスペラントが流行っていない・話者が減っているという認識があって、それはその国際共通語としての機能と言語権ばかりを強調しているから、そしてザメンホフが目指したような自由で平等で平和な世界を目指すことが強調されないから、魅力に乏しくなっているのだ、との現状認識らしい。
「でもそんなのかんけーねー」
だが、世界でエスペラントがどのような位置づけになろうが関心もなければ関係もないという。自分らが楽しければそれで良いのだと。
ザメンホフ「的」な理想は大事だが
ただし、ザメンホフ「的」な理想が大事だというが、ザメンホフが提唱したこととは違う。
1.世界主義---なんか違う気もするが、言い方がザメンホフと違うだけだろう、としておこう。
2.平等主義---なんか違う気もするが、言い方がザメンホフと違うだけだろう、としておこう。
3.ヒューマニズム---内容に特に反対すべきところはないが、ザメンホフはいちいち経済や政治政策のあり方についてエスペラントがその考案の趣旨に照らしてどうなのか、などということは戦争以外には述べていないのではないか?
4.民主主義--大きく反対するところはないが、構成員や当事者の参加と代議制だけをザメンホフ的なものとして取り上げるのは疑問。
5.平和主義---主文は良いのだが、自衛とその準備を「権利」として認めることで、平和主義を全く空文化してしまっている。多くの戦争、市民の殺戮、自由の圧殺、経済の軍事的な歪みが自衛とその準備の名のもとに行われている。また、自衛はたいてい国家的なことであって、個々のエスペランティストがエスペラント運動の中で問われることではない。個々のエスペランティストが暴漢に襲われたときに自衛の権利があるとしても、それをエスペラント運動の中で言及する必然性がない。もし、諸個人の尊厳を諸個人において自衛する権利を言うのであれば、「抵抗権」や「革命権」こそが強調されなければならない。
6.寛容---特に反対すべきことはない。他のエスペランティストが前条1~5に反している場合はどうするのかな。
7.多様性---エスペラント文もわかりにくいが、日本語にしてもわかりにくい。何がしたいのだろうか。
こうしてみると、上げた項目のいくつかは恣意的であり、肝心の平和主義の項目は全く賛成できない。
哲学を明確にしてサブカルを生み出す?
エスペラントが公的な地位を高めることについては関心はなくて、自分たちだけで楽しめば良い。
自分たちの平和で寛容で民主的な価値観を明確な「哲学」に洗練して、参加したくなるようなサブカルを生み出したい。
と私は読んだが、どうかな。
じゃあ、その面白いの作ってみせろよ、ということかな。
プラハ宣言と比べて
世界人宣言は、エスペラントで現実世界に対して、どのように関わっていきたいのか、よくわからない。
たとえば、硬い話では、SDGsは人類的な・喫緊の課題であって、その各国の取り組みをエスペラントで交流しようとか、ニュースでは流れないような工夫だとか、それぞれの国や地域で、どんな気持ちで暮らしているとか、嬉しいことや悲しいこと、辛いことを分かち合って元気になろうとか、そんなことが求められるんじゃないのかな。相互理解を深めることが大切なんじゃないのかな。
べつに、それが英語でもいいんだけど、英語を学んだからって、そんな人の輪ができるわけではない。不思議と誰かとそういう話をしよう・聞こうとは思わない(少なくとも多数の人は)。英語ができる人の前では縮こまる。聞いても聞き取れないし、聞き取れないような言葉を話しても通じない気がする。金を払って英会話学校に行かねば自由になれない気がする。だから、エスペラントがお手軽なんじゃないのかな。(けっこう大変だけど)
プラハ宣言と読み比べると、詳細な比較はしてないけれど、「世界人宣言」は断然しょぼい。格調低い。
中学生のサークルの話し合いで、少し賢いやつが喋ったようなショボさ、という印象である。
あまり、これを洗練していけば、導きの旗になる、という気もしないし、やる気もわかないな。