追記
ハンギョレ新聞 2025-10-13
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/54442.html「壬辰倭乱は残酷な侵略戦争…先祖の過ちを謝罪します」
「壬辰倭乱は地獄でした。多くの人命を失った残酷な侵略戦争に対して、心から謝罪します」
壬辰倭乱(文禄・慶長の役、1592~1598)の際、朝鮮の国土と人民を踏みにじった日本の武将の子孫が、先祖の蛮行を謝罪した。1592年に壬辰倭乱が勃発してから433年目にして初めてとなる謝罪だ。
追記ここまで。
京都市の国立博物館の隣は豊国神社で、その西向に「耳塚」がある。
耳塚は1592年-1598年の秀吉による朝鮮侵攻の際に、戦功の証として敵兵(朝鮮・明の兵)の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを「葬った」塚とされている。また、侵攻後半・末期には戦闘員か否かに拘らず老若男女や赤子に至るまで殺害し(そういう命令が出された)鼻を削り取った、という。ジェノサイドである。
この耳塚は秀吉の武威を称揚するため築造されたとして、明治以降も朝鮮侵攻を賛美するモニュメントとして機能してきたという。
1873年の京都博覧会を期に発行された外国人向けの京都の観光ガイドブックに、そのような調子で耳塚について説明をつけて掲載していたが、外国人からは「驚きと嫌悪感が綯い交ぜになった戦慄」を覚えるというレポートが発表され、次第にガイドブックから姿を消していったとのことである。*1
一方、耳塚は戦争犠牲者の鎮魂目的に造られたのであって、秀吉の慈悲深さを示すものである、との説もあり、塚の脇の石碑はその説の立場である。すなわち「豊太閤は敵の兵士が国のために戦死したことを哀れみ…大供養を修した。敵味方を差別せず慈悲を垂れたのは、赤十字社の精神をその300年前に発言したものと言っても良い」(1898年建立の碑)。*2
先日、韓国から来られたエスペランティストを案内したが、説明しながらなんとも言えない気持ちになった。訊かなかったので当人たちはどう思われたのかはわからない。
たしかに、生まれ・民族・国籍が韓国なり朝鮮であれば、京都の耳塚を訪れてみたいとは思うだろう。
しかし大きな塚がひけらかしているのが武威であれ慈悲であれ、いずれにしても、耳塚は犠牲者のためではなく秀吉のために造られたものである。慰霊・鎮魂のために築造されたとしても、その後「塚を造って慰霊しました、ごめんなさい」と朝鮮に謝ったわけではない。後の朝鮮通信使たちも嫌悪したような史跡である。
こうしてみれば日本人にとっては恥ずかしく、朝鮮人から見れば腹立たしく、第三者から見れば日本がただ残酷冷血であったことの具現でしかない。
歴史の教訓塚として機能させること以外に、存在価値がないし、その存在価値は大切にしなければならないだろう。