芝田進午氏(1930-2001)は日本における最も優れた重要な唯物論哲学者にして社会学者、社会活動家であった。
本棚を整理していて、『唯物論 9号』(唯物論編集委員会編、1978年5月)に「現代文化論の課題」というのを書いておられるのを見つけた。一部を引用して紹介したい。北朝鮮が核実験を強行し、それを諌めるべき国連安保理事会の常任理事が未だに大量核保有国のみによって占められている今日、核廃絶運動に身をささげた氏の文化論の紹介は(文化論ではあっても)十分意義あることと思われるのである。
人類絶滅の危機と文化の危機
核兵器廃絶のための闘争は、人類絶滅と世界史の終焉を阻止し、人類が生き残るための闘争であって、その点で、世界史上最も重大な闘争、人類史的意義を持つ闘争であるが、この闘争は、また文化のための闘争であり、またそれ自体、文化闘争、文化運動そのものでもあるという性格をもっている。おそらく、核兵器廃絶のための闘争が文化にとってどんな関係があるのかと疑問に思う人がいるかもしれない。しかし、人類が絶滅されれば、うたがいもなく文化も絶滅されるのであるから、文化の絶滅に関心がないという「文化」があるとすれば、そのような「文化」は、みずからの存在理由について蒙昧なものであり、「反文化」とはいわないまでも、「非文化的なもの」「無教養なもの」といわれても仕方がないであろう。
そして実際、核兵器廃絶のための運動は、文化のための闘争そのものである。人類は、これまで、その歴史において、多くの文化が発達し、また滅びるのをみてきた。そして、この地上には、滅び去った社会の文化の遺蹟といわれるものが残っている。しかし、現在、地上に蓄積された核兵器が使用されれば、地上のすべての文化財は灰になり、文化は絶滅され、地上は放射能で覆われて、人類が生存することは永遠に不可能になるであろう。絶滅された都市に醜怪なビルディングの瓦礫の山が残り、人類文化の「遺蹟」になるとしても、それを「遺蹟」とみとめる「後世」の人類そのものがいないことになろう。
まことに核兵器恫喝者は、史上最大の巨大な文化絶滅の勢力、反文化の勢力として人類の前にたちふさがっているのであって、その破壊力の前には、かつてローマの文化を破壊したヴァンダル族、またインカの文化を破壊したスペインの植民地主義者たち、さらには朝鮮民族や中国民族などの文化財を破壊し略奪した日本軍国主義者、ワルシャワをはじめ数多くの都市と文化財を破壊したナチ・ファシスト、ベトナム社会を「石器時代にまで退化させる」と豪語したアメリカ帝国主義者たちも、影をうしなってしまう。
それでは、「文化」と言われるに値するのはどういうものであろうか。
第一に、核戦争を糾弾し、核兵器と核軍拡競争を批判し、人類と文化の絶滅を阻止することを自覚的に課題とする文化とそのジャンルである。
第二に、核兵器を糾弾することに直接関係を持たなくても、人々が現在の危機を自覚し、それを克服していけるように、感性と理性、人間の権利と尊厳の意義、そして実践への情熱と実践力を形成してきた文化、民主主義的・ヒューマニズム的文化は「現代の文化」と言われるに値する。それは、その文化のジャンルや担い手がそのことを自覚しているか否かには関わらない。何を標榜していても、その文化運動が核兵器による人類絶滅の危機について、或いは一般的には人間の生きる権利をはじめとする基本的人権について無知であり、それについては沈黙し、またそれについての大衆の感性・理性・情熱を発展させることに無関心であるとすれば、また性の商品化に屈服し、あるいはテロリズム、暴力を礼賛しているとすれば、そのような「文化」運動は、現代という時代にふさわしい「文化」であるとは言えない。
第三に、他方、今日のわが国において、何が文化と呼ばれるに値しないのか。周知のように、わが国には、広島・長崎への原爆投下を糾弾せず、数十万人の平和な市民の大量殺戮、そして約四十万人の被爆者の苦しみを「やむをえなかった」とみなす勢力が存在する。かれらは、みずからの戦争責任を認めず、被爆者を差別し続け、日本がアメリカの核戦略基地になっていることを肯定し、さらに日本の核武装をさえ要求している。かれらは、アメリカの核戦略が続けられる限り、かれらも含めて日本国民が絶滅される危険がますます大きくなっていることに無知なのであろうか。おそらく無知であり、無教養なのであろう。また無知でないにしても、かれらをふくむ日本国民や人類の絶滅よりも、彼らの私的・階級的利害、すなわち多国籍企業、軍需産業への従属を優先させざるを得ず、身動きが取れなくなっている不自由な人々なのであろう。このような勢力は、かれらがどんなに「文化」の装いをつけても、文化にふさわしいということができるであろうか。……そうした「文化人」たちの「文化」はそもそも文化といえるものなのであろうか。いや、それは、人類と文化の絶滅をもいとわないか、その危険について無知・無教養であるがゆえに、もはや文化ではなく、現代のヴァンダリズム、「反文化」というべきものであるにすぎない。
第四に、このような「反文化」勢力に直接むすびついているわけではないにしても、現代の最大・緊急の課題、人類と文化の絶滅を阻止するという課題の重要性を曖昧にし、人々の感性と理性、情熱と行動力を鈍らせる「文化」も存在する。じっさい今日のわが国で、どれほどの文化人・文化組織・ジャンルのどれほどのものが人類と文化の絶滅を阻止するという課題に関心を示しているであろうか。関心を示さないまでも、人々に関心をもたざるをえないような感性や理性、人権意識を形成することに寄与しているであろうか。寄与しないどころか、そのことを妨げる役割を果たしているものがないであろうか。人間の尊厳に対抗して人間の冒涜を商用しないまでも、そもそも人間の尊厳と冒涜との対立そのものに無関心なものがすくなくないのではないか。人類の存続か絶滅か、文化か反文化かという選択を迫られていること自体に無関心なものが多いのではないか。そのような「価値から自由」な「文化」、文化の運命に無関心な「文化」がはたして「文化」といえるのだろうか。それは「反文化」とはいわないまでも、「非文化」と言わざるを得ないのではないか。
現代文化論は、まず第一にこのような反文化・非文化をどのように克服するかという課題を避けて通ることはできないのである。
上はほとんど引用であるが、字句をもらさない引用ではなく、適宜省略したり言い回しを変えたりしている。