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Ĉu aĉeti armilojn fortigas nin?


Ĉu aĉeti armilojn fortigas nin?

el leterkesto de ĵurnalo "HOKKAIDO SHINBUN" 2023-jan-8a.


Mi eksciis, ke Japanio aĉetos kroz-misilojn "Tomahawk". Tio estas strategio, ke havi ilin ĉesigas ataki Japanion pro timigo de aliaj landoj.
Post la milito (la Dua Mond-Milito) dum 77 jaroj Japanio tenis principon ne bati ian ajn landojn. Sed Japanio ekhavos kapablon ataki militajn bazojn de aliaj landoj per misiloj por memdefendo, laŭ la registaro. La registaro ne konsultis nin, ĉu Japanio povas misilojn "Tomahawk" kaj ĉu Japanio povas draste ŝanĝi la politikon pri sekurigo de nacio, sed laŭ la registaro ni devos prepari aĉetadon per pli da nia imposto. Laŭ la registaro tio necesas, por ke nia lando fortiĝu kaj memdefendu.
Ni jam laciĝis de maskado (kontraŭ KOVIM-19), kaj krome se la nukleaj centraloj estus atakataj, maskado tute ne sufiĉos. Por eviti tian situacion, la registaro diras, Japanio devas esti "milito-pova regno".
Ĉu Japanio fariĝos vere forta per tio? Mi ne scias. Kaj tamen, se "Tomahawk" ne efikus timigi, do, kion la registaro aĉetigos al ni?

https://twitter.com/siroiwannko1/status/1612096354658156545/photo/1

Dek jaroj

重い歳月

吉田 信


故郷の海岸線は原発の銀座になり
人々の素朴な暮しのありようも
人々の眼付きも
心なしか変ってしまった十年だった


私たちの一生も限りがあるから
誰にとっても十年は永かった
だが
慣れない金策に駆けまわり
署名を集め勉強会もする
この十年がなかったら
私たちの人生はやせ細ったものになっただろう


それにしても空しい判決だった
空しさはどこから来るのか
裁判官が真実から目をそむけたから
権力に尻尾を振ったから


空しいのは彼らであって
私たちではない


〈真実〉はいつも少数派だった
今の私たちのように
しかし原発はいつの日か
必ず人間に牙をむく
この猛獣を
曇りない視線で監視するのが私たちだ
この怪物を絶えず否定するところに
私たちの存在理由がある


私たちがそれを怠れば
いつか孫たちが問うだろう
「あなたたちの世代は何をしたのですか」と

苛酷事故を未然に防ごうと取り組んできた、福島第二原発立地許可取り消しを求める訴訟原告の一人であった吉田信さんが、1984年7月23日、敗訴となった地裁判決の日に詠んだ詩、だそうです。



Helpite de Google Tradukilo

pezaj jaroj

Shin Yoshida


La marbordo de mia hejmurbo fariĝas la Ginza (plezurkvartalo en Tokio) de nukleaj centraloj
Ankaŭ la simplanima vivmaniero de homoj
Ankaŭ okuloj de homoj
Ŝajne ŝanĝiĝis en la lastaj dek jaroj


Ĉar niaj vivoj estas limigitaj
Dek jaroj estas longa tempo por ĉiuj.
Sed
Kurantis ĉirkaŭe por trovi financojn
Kolektis subskribojn kaj okazigis studsesiojn
Ni ne havus ĉi dek jarojn
nia vivo estus magra


Nu, la juĝdecido estis vanta.
De kie venas la vanteco?
Ĉar la juĝistoj ignoris la veron;
Ĉar ili svingis la vostojn al potenco.


Vanta ne estas ni,
Sed ili.


ĉiam estis minoritata
kiel nuna ni.
Sed iam nukleaj centraloj
Nepre ribelos al homoj.
Ĉi tiujn rabobestojn
Ni kontrolas per klaraj okuloj.
Senĉese nei ĉi tiujn monstrojn
Estas la kialo de nia ekzisto.


Se ni neglektus tion
Iam miaj nepoj demandos
"Kion faris via generacio?"

Sinjoro Makoto Yoshida, unu el la akuzantoj en la proceso postuli nuligon de la licenco por la loko de la Fukushima Daini Nuklea Centralo, kiu laboris por preventi severan akcidenton, verŝis ĉi tiun poemon la 23-an de julio 1984, en la tago. de la perdanta juĝa decido.

公正世界仮説とエスペラントの無力

自分の公正世界は狭量だと思う。

公正世界仮説

公正世界仮説(こうせいせかいかせつ、just-world hypothesis)または公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう、just-world fallacy)とは、人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込みである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC

公正世界仮説がもたらすもの

引用先には言及されていないが、悪性疾患を指摘されて怒り出す患者も、その「公正世界」が毀損されたと感じて怒りを感じるとのこと。

私は何も悪いことをしていないのになぜガンになるんだ!=悪いことをしなければガンなどにはかからない。

https://twitter.com/Blanka_Meduzo/status/1610132419298070528

Hipotezo pri justa-universo:
Homoj kredas, ke homoj mem vivas en justa-universo. "Malbonaj agoj rezultigas malbonojn al agantoj."
Do, ekz. li/sxi falas en kanceron, lia universo difektigxas.
"Kial mi malsanigxas pro kancero, kvankam mi neniam faris malbonon?" Li koleras.

https://twitter.com/Blanka_Meduzo/status/1610135104000782336

エスペラントと平和

ところで

エスペラントは、言語・民族・国家などの境を越えて人々が相互理解を深めることで差別をなくし平和をもたらしたいという動機で考え出された言語。
武器・武力=暴力とエスペラントは相いれない。
軍拡に賛成するようであれば、その限りにおいてその人はエスペラント創始者の精神と相いれない。

https://twitter.com/Blanka_Meduzo/status/1611204818969972736

Esperanto estas lingvo, kiu estis kreita sub la motivo forigi diskriminacion kaj estigi pacon per profundigo de interkompreno inter homoj trans la limoj de lingvoj, etnecoj kaj nacioj.
Armiloj aux milita forto (t.e. perforto) kaj Esperanto ne estas kunigeblaj.

https://twitter.com/Blanka_Meduzo/status/1611543552378687488

しかしながら、エスペランティストでありながら大軍拡に賛成することも差別的言辞をまき散らすこともできるし、なんなら、それをエスペラントでやることもできる。


これがなんとも腹の立つ現象で、やり切れない気持ちになる。

https://twitter.com/Blanka_Meduzo/status/1611205328603054080

Tamen oni ankoraux povas samtempe esti esperantisto kaj pledi por freneza armil-vetkuro, disvastigi rasismon kaj diskriminacion, kaj ecx fari tion en Esperanto.



Cxi tio estas tre frustranta fenomeno, kaj mi ne povas eviti indignon kaj senton de senpovecon.

https://twitter.com/Blanka_Meduzo/status/1611545936798568449

公正世界仮説エスペラント

世の中には、さまざまな利害関係る上に、テレビやインターネットで宣伝が行き届いているので、自分の不利であってもそれに賛成する悲しい人も少なくない。政治経済の不利には鈍感だが、身近な不利益には過激に敏感な人もいる。

そんなことは知っているが、自分は狭量なので、なかなかそういう発言や人物を容れることができない。

半世紀にわたるたたかいが歴史を動かした

(倉庫から出てきたB4版1枚2段組の資料を捨てる前に、ここに紹介します)


半世紀にわたるたたかいが歴史を動かした

ハンセン病訴訟原告溝口製次さんの訴え〈要旨・編集)

〈2001年か2002年〉六月十七日に開かれた山科区民のつどいと東山「溝口さんを囲むつどい」での溝口さんのお話を編集して紹介します。

十一歳で母に連れられて恵楓園に入所

 熊本から来ました溝口製次〈1935/12/28-2011/9/7〉です。
 私はいま六十六歳です。十一歳の時に菊地恵楓園に入所しました。忘れもしない、一九四六年三月十四日のことです。
 母が「明日、熊本見物に連れていってあげる、早く寝なさい」と言うのです。うれしくて前の晩はどきどきして寝ました。夜中に目を覚ますと、母は縫い物をしている。母の無地の着物を私の服に作り替えているんです。
 初めてそのとき、市電にも乗りました。うれしかった。電車を何度も何度も乗り換える。ところが「あれ、どこに行くんだろう。私の田舎と同じようなところだ」と思っていました。そんなふうにして恵楓園に到着したのです。
 翌日、白い着物を着た人が呼びに来て、蔵みたいな所に連れていかれました。目隠しをされ、筆や針で顔や足をつつかれて。「ここが痛いか?痛くないか?」と聞いてくる。そして「今日からあなたここにいなさい」と言われました。
 びっくりして外にとびだすと、母の姿はどこにもありませんでした。私は「帰る、帰る」と大騒ぎしましたが、取り押さえられました。一銭もないのでどうすることもできません。
 後で分かったことですが、母は、役場や保健所から毎日のように「長男坊を恵風園に連れていけ。そうしないと妹も弟もおれなくなるぞ、村八分になるぞ、家は真っ白に消毒するぞ」とおどされ、泣く泣く熊本見物だと言って療養所に連れてきたのです。母が帰ったのは、別れる時の悲しさに、これ以上耐えられなかったからだそうです。

真実を知りたたかいに参加、そして入党

 十八歳のとき、「らい予防法」に反対するたたかいがまきおこり、私も五日間のハンストもやりました。このときはじめて「そうかこの『予防法』のために自分たちはここに閉じ込められているのか」ということも知りました。
 このたたかいを本当に支援したのは日本共産党だけでした。そして、私も日本共産党日本民主青年同盟に加わりました。そのときの仲間が、京都で看護婦をされていて今日も来られています。たいへん懐かしく、また感動もしています。
 私は当時、すでにハンセン病の菌がない状態になっていました。「らい予防法」は病気が治っても、いったん入ったら出さないという隔離法なのです。患者だけでなく、家族、親戚まで被害を受けました。商売もだめになり、一家も離散して、今、どこにいるかさえわからない人もたくさんいます。
 この法律は、「天皇が統治する国の大和民族の血を汚すものは撲滅する」という理由でつくられました。そして新憲法のもとでも、何もかわりませんでした。
 私たちは日本共産党員として、さまざまなたたかいを続けました。そしてついに、五年前の一九九六年に「らい予防法」廃止をかちとりました。しかし、政府は「廃止する」と言っただけで、被害者への反省もなんの保障もしない、何も変わりませんでした。これでいいのかと思いました。

青年の一言が訴訟開始のきっかけに

 その半年後、薬害エイズ訴訟を支援する熊本の青年と話し合ったときのことです。ある女子大生から、私のその後の行動を決定付ける質問を受けました。それは「憲法違反として訴訟をするつもりはないのですか」というものでした。私は全身の血が凍ったようになり、返答できなくなりました。これがハンセン病訴訟をはじめるきっかけになりました。
 そして一九九八年七月三十一日、熊本地裁に十三人の第一次原告がはじめて提訴したのです。実は、この訴訟に恵楓園から参加したのは最初四人だけで蕊した。「国の世話になっているのに裁判とはなんたることか」と非難されたからです。園長からは「あんたたちは弁護士にだまされている、支援する人は誰もいない、園から出て行け」とまで言われました。
 私は「これに負けたらおしまいだ」と思い、毎日毎日、原告を増やすために走り回りました。急速に、多摩、群馬、岡山、沖縄、青森など全国的な訴訟に広がりました。

ついに勝利判決と控訴断念をかちどる

 五月十一日、熊本地裁は「国も国会も憲法違反の行為を続けた。国会は立法不作為(ふさくい)の責任がある」という判決を下しました。画期的な全面勝利です。
 しかし政府は、私たちの控訴断念を求める声にたいして、門を閉ざし会ってもくれません。原告団は必死でした。私も一ヶ月間で五回、東京と熊本を往復しました。
 やっと二十三日の夕方に原告団と首相が会うことになりました。ところが、その日の午後三時頃には、「政府は控訴を決定』という夕刊が出ました。法務省が流した情報です。政府は最後まで醜いあがきをしていたのです。
 このとき、私たちは有楽町で宣伝をしていましたが、たまたま私だけが、原告団のたすきをしていたので、すごい数のマスコミに取り囲まれ感想を聞かれました。私は「仮にここに十億円つまれようと、熊本地裁判決の方をもらいます」と答えました。これはいっせいにニュースで流されました。
 ところが小泉首相は官邸に入って、青ざめたそうです。そこには全国からのFAX、メール、はがきなど、日本中の津々浦々から届いた、控訴するなの声が山積みになっていました。そして、とうとう首相は原告団に対して「控訴は断念します」と言ったのです。元気のない、蚊のなくような声で、そこにいたものにもよく聞き取れなかったそうです。
 翌日の新聞はどれも「首相の英断」と書きましたが、国民の大きな世論で追い詰めたということではないでしょうか。
 全面解決に向けたたたかいはまだこれからです。みなさんの大きなご支援を心からお願いします。

がんばれば政治も変えるこどができる

 いよいよ、来月は選挙です。
 二度とハンセン病のような悲劇をつくらないためには、政治が変わらなければなりません。どんな差別や偏見、国民の苦しみも、政治がおおもとにあるのです。そしてがんばれば、世論の力で勝利することも、政治を変えることもができます。
 ぜひ一言申し上げたいのは、公明党が、判決がでたとたん、てのひらを返すように、毎日のようにやってきたり、控訴断念は公明党の力だというビラまで配っていることです。
 彼らは署名を一筆も集めていません。集会にも来ませんでした。それどころか、徹底して中傷、妨害をしました。こういう政党が日本共産党に対してでたらめな攻撃をやっているのです。まったく許せません。
 京都は四候補たたれるということで大変激戦区です。
 保守王国である熊本から、日本共産党のメッカである京都に来て言うのもおこがましいですが、ぜひ日本共産党と河上よう子さんを勝利させてください。

自費出版だった『リディア エスペラントの娘 リディア・ザメンホフの生涯』

1990年5月の「La Revuo Orienta」で渡辺克義さんという方が1985年に英語で出版された『Lidia: The life of Lidia Zamenhof, daughter of Esperanto」の紹介をしておられる。
ポーランドではリディアの存在は知られていない。本書はエスペランティストでありバハイ教徒という2つの面でのリディアを記述しているが、ポーランド人・ユダヤ人としての言及が不十分としておられる。


1995年1月の「La Revuo Orienta」で訳者の水野義明さんが、訳本出版の事情を紹介しておられる。全額自費で210万円の支出、初版1000部、定価1400円(全部売れても70万円)という出血出版であったと。私もありがたく初版第一刷をもう少しで読み終わる。

『リディア エスペラントの娘 リディア・ザメンホフの生涯』(アマゾンへのリンク)


En la numero januara 1995 de "La Revuo Orienta", profesoro MIZUNO-Yoshiaki skribis pri la cirkonstancoj de la publikigo de la tradukaĵo de “Lidia: The life of Lidia Zamenhof, daughter of Esperanto” (en la japana). La libro estis eldonita de la eldonejo “KINDAI-BUNGEI-Sha”, sed efektive tio estis privata eldonado kun minusa profito (proprakoste) por la tradukinto.
La totala elspezo por eldonado estis de 2.1 milionoj da enoj, ekzempleroj de la (nur) unua eldono estis nur 1.000, kaj fiksita vendprezo estis 1.400 enoj (7 cent mil enoj enspezus, eĉ se ĉiuj estis forvenditaj). Mi danke baldaŭ finlegos la libron, la unuan eldonon.

Lidia La vivo de Lidia Zamenhof, Filino de Esperanto en UEA Katalogo

Sxigeko kaj post milito

Nun modas trompo "mi, mi". Mi rememoras "s-ino Sxigeko".
En la auxtuno de la militfina jaro. Tiutempe mi logxis en la urbo YONAGO, en gubernio TOTTORI. Sxi staris antaux pordo de mia domo.
"Estas mi, estas mi! Cxu vi forgesis min? Mi translogxe foriris je la dua lernojaro en la knabina lernejo, nomigxas Sxigeko. La klasinstruisto estis MINAMI." En mia memoro ne estis tio, sed sxi petis logxigi sxin cxe mia domo unu nokton. Mi permesite de mia patrino tranoktigis sxin.
Mi dirante "cxar ni ne havas suficxan rizon", donis rizon kun batato al sxi. Sxi mangxis kun mirinda rapideco. Kaj sxi dormis apud mi kaj je la venonta mateno sxi foriris.
Kaj post tagoj ree sxi venis. "Dankon, antaux tagojn. Vi diris, ke vi mankas rizon, cxu ne? Mi scias riz-vendiston kontruxlegxan." Sxi kondukis min al labirinte senorda loko. Sxi proponis, ke sxi acxetu por mi rizon. Tial mi donis al sxi monon. Sxi diris, "atendu cxi tie", kaj foriris.
Tiam, kiam m irimarkis tuton, estis jam malfrue. Mia patrino diris, "mi gxojas, ke vi ne estis trompanto".
Kvankam mi ne deklaris la aferon al la polico, poste min venigis la polico. Sxi trompis multajn homojn, kaj sxi arestite konfesis ankaux pri mi.
Kaj poste, tiu, kiu nomigxas "frato de Sxigeko" reveninte de militejo, venis al mia logxejo. "Mia fratino gxenis vin..." kaj petis peticinon mildigi sxian legxan punon. Mia patrino afable signaturis al gxi.
Se sxi vivas, sxi estas samjarojn agxa kun mi. Kiel vi fartas, s-ino Sxigeko?

https://twitter.com/mori_to_nagisa/status/1606306959011241984/photo/1