外国語を学ぶ・使う意味

  ...mi klare vidiz la valoron kaj utilecon de Esperanto. Per esperanto mi povis sendi raportojn pri diversaj aferoj ne raportat/otajn en aliaj landoj. Tiu agado estas iusence fari truon en la muro starigita de la aŭtoritato por kaŝi veron. Ĝi estas agado por demokratio....
  Esperanto estas tiel utila, sed ĉu mi kaj ĝenerale esperantistoj vere komprenas tiun valoron kaj utiligas ĝian povon? Ni nomas nin "esperantistoj", sed kion ni faras kiel esperantistoj? Ĉu ni serioze lernas? ... Ĉu ni uzas Esperanton vere por amikeco kaj por paco? Ĉu ni helpas aliajn per Esperanto?...
  Post la katastrofo multaj homoj demandis sin, kiel vivi. ankaŭ mi pripensadis pri tiu demando, kaj atingis tre simplan konkludon, ke mi pli serioze kaj sindone vivos kiel esperantisto kaj ke mi uzos Esperanton pli multe por demokratio kaj mondpaco.
(el la antaŭparolo de "Raportoj el Japanio 15")


昨日、頼んでおいた『Raportoj el Japanio 15』をやっと取りに行くことができた。著者は前橋に在住のエスペランティスト堀泰雄さん(Wikipediaこちら)。2011年3月11日の大震災以降、SATに日記形式でレポートを公表しておられ(初日はこちら)、本書はそれをまとめたもの。
氏は震災直後から被災地支援の活動を始め、欧州へ震災・原発事故についての講演・募金活動を行っておられる。氏レポートは欧州で抜粋・出版された。

 最後は質疑になり、大体はほとんど原発関係だった。フランス政府は、福島の事故を恐れ「福島ははすでに終わった」として報道しないようつとめているという。確かに、フランスの新聞をあちこちで広げてみたが、この20日間、震災はもちろん、原発関係の記事は一度も見なかった。
 講演の最後が原発になったので、参加者の頭から唐丹(被災地のひとつ)が忘れられる結果にはなったが、それでも講演した8箇所のうちの5箇所で、終わったあと、何人かが静かに近寄ってきて「少しだけど子供たちに」と私にお金を手渡してくれた。
 最高が50ユーロ、大多数は20ユーロか10ユーロだったが、帰って数えてみると725ユーロもあった。遠い日本の子供に思いを馳せる人がこんなに多いのかと、お金を受け取るたびに私の目頭は熱くなった。

http://www10.plala.or.jp/yasnoli/eec/EEC%20report-18.html


原発大国フランスではフクシマの事故・被害のことはほとんど報道されておらず、堀氏のレポート・講演は重宝がられた。これもエスペラントのおかげで、当局の作った厚い壁に穴を開けることとなった。こうした活動は民主主義のための活動と言えるだろう。
エスペラントはこのように大変役に立ったが、みんなエスペラントの価値をわかっているのだろうか。エスペラントをきちんと役立てているのだろうか。エスペラントを本当に平和と友好のために使っているだろうか。誰かを助けるのにエスペラントを役立てたりしているだろうか。……震災後多くの人はいかに生くべきか自問自答している。自分も考えてみたが、結局至った結論は単純なものである。より真剣に献身的にエスペランティストとして生きること。エスペラントをもっと民主主義と平和のために使っていくということ、これである。」
これは重要なことだと思う。エスペラントのみならず、あらゆる外「国」言語について言えることであろう。英語でもロシア語でも、暴力や抑圧、不正の合理化のために学ばれるようではいけない。何のために学ぶのか、その本質的な点が問われている。
実はそれぞれの母語でも同じことが言えるのだが。もちろん日本語も。


ただし、あらゆる言語が民主主義と平和とを叫ぶ目的で学ばれ使用されなければならないなどと言っているつもりはない。
また逆に、(これにも論争点はたくさんあるだろうが)民主主義と平和とを毀損するために学ぶ・使うというのは、その学ぶ対象自身に矛盾した行動・学びということになるだろう。