中立性とエスペラント

エスペラントは中立な言語だ、と言われている。私はそうではないと思っているが、ここで考えるのはその、言語そのものの中立性ではない。政治的・宗教的中立性のことである。



例えば、食べ物のことを「中立」に扱うことができるだろうか。食事や食物に関することは「中立」を保持できるだろうか。
これは難しい。イスラムの人びとが豚を食することを厳格に禁じられているとして、食肉・肉食のことを彼らと自由に語るのは、どのような配慮が必要か、私は知らない。
私は鯨肉をそんなに好きではないが、当然、クジラの保護は平和の不可欠の要素であると考えている人がいるらしいから、彼らは鯨食を攻撃するか、あるいは調査捕鯨について何らかの否定的な見解を鯨食者から引き出さずにはおれないだろう。
菜食主義の人たちは、そんな残酷な話はしたくない、というかもしれない。犬を食べる、猿を食べる、魚の活け作り食べる、蛸を踊り食いする、ナマコなんか食べちゃう、等々。
また、旧植民地の名残りから、モノ・カルチャーの弊害や「緑の革命」による「被害」、地球的な食糧の偏在などについて抗議をする人もいるだろう。
地球的に富が偏在している現在、食べ物について「中立」を保ちながら語るのは非常に困難であるといえないだろうか。




以前、私が訳そうとして挫折した芝田進午氏の説によれば、「いつ人類が滅亡してもおかしくない核時代」という認識のもと、人類が滅亡したら文化もありえないのであるから、その論理的帰結として

  1. 核兵器廃絶を目指す文化こそが『現代の文化』と呼ばれるにふさわしい
  2. 核兵器廃絶を直接言わなくても、人間や自然、社会に目を開かせる作用のある文化は文化的である。なぜなら、それら人間・自然・社会は核戦争に対立的だからである。
  3. 核廃絶に無関心な文化(団体)は文化(団体)とは言えない
  4. 核廃絶に関心を寄せることをさまざまな形で邪魔する文化は反文化である
  5. 核廃絶そのものに反対する文化は文化というに値しない

というようなことである。
核問題に関して、この論理で言うと、その「問題意識」や「論理」の担い手である人間そのものの存亡にかかわることであるから、「中立」などというのはありえないのである。
あえて「核問題に関して中立」ということを宣言するとすれば、それは少なくとも「反『反核』の容認」であるから、そのような立場は上の4か5である。




「中立性の確保」というのは、何もしないことですら中立でない場合があるので、実際には非常に困難であるか、あるいは分野によっては無意味なスローガンなのではないかと思っている。