中立主義がもたらしたもの

中立主義への固執、それによって、帝国主義的侵略を見抜き批判する見識と勇気を持てなくした、奉ずるホマラニスモの視点も喪失したということだろうか。

あるいはホマラニスモとかヒューマニズムに関する認識が、すごく浅はかだったのかもしれない。(エスペラント学会は公式には思想運動ではなかっただろうが、ザメンホフに傾倒しているエスペランティストは少なくなかったはずであるが。)

尹 智燥氏「1930年代の日本のエスペラント運動と国際関係」(『相関社会科学』第19号、2009年、リンク先はPDF)をもう一度読んでみた。
日本エスペラント学会は、「国際協調主義」を投げ捨て、国際エスペラント連盟も脱退し、組織と「運動」を弾圧から「守る」ため(か)、権力にすり寄って、ついには

「皇国の大理想たる東洋平和、八紘一宇の精神に基き」 「我国の文化を広く海外に紹介し、 日本を正しく認識せしめ、今日欧米諸国において往々見られるが如き偏見を除くこと」 (理事長声明1938)

を運動の目的とするにようになってしまう。
具体的には

「国策に沿ふ」 「国際語」エスペラント運動が開始され、 日中戦争の正当性を訴えるパンフレットの作成や配布をはじめ、古典の翻訳、通信、ラジオ放送、 日本観光案内書の製作などの事業に乗り出すようになったのである。(尹)

また、以前には(多民族・多言語国家)満州国における共通語をエスペラントにすることを提案もしている。



かんたんに言うと、プロレタリア・エスペラント、進歩的エスペラント(この区分は自分にはよくわからない)以外の主流エスペランティストや組織は、日清・日露戦争韓国併合、「支那事変」などを他国他民族にたいする侵略・侵害という認識を公式には持っていなかったということだろう。
だから、東亜文化圏内の共通語を(論者によって程度の差はあれ)日本語とすることに抵抗がなかったのではないか。


あるいは不思議でもあるのは、中国・朝鮮やそれらの国から日本に来ているエスペランチストは居たはずで、彼らが日本(や欧米)による干渉や統治を歓迎している者ばかりではないはずだ。彼らとエスペラント組織の主流の人たちの接点はなかったのだろうか? あるいはプロ・エスの潮流を介して間接的にでも現地の人の声を、ザメンホフの思想を内在するものと自認するエスペランティストとしてどのように聞いたのだろうか。

エスペラントと広域秩序論

尹氏はまとめとして次のように述べている。「広域秩序論」は私には馴染みのないコトバであるが、「大東亜共栄圏」「東亜文化圏」のような思想・構想のことと理解しておく。


「広域秩序論」が日本の佐野・鍋山ら転向「社会主義者」だけでなく、朝鮮の社会主義者にも「転向」の論理を提供していたというところは、そんな例があったのか(?)と思うが、そもそも当該「広域秩序論」の帝国主義性=侵略性を問題にし得ない時点で、エスペラント学会は侵略ということに無神経であって、広域秩序論に乗った段階では侵略に荷担しているということになると思う。


尹論文は、ザメンホフヒューマニズムを奉ずるエスペラント学会が戦争協力になぜ傾いていったのかは問題にしていないように思う。
エスペラント学会の「中立主義」、「政治的記事は書かない」という原則に寄りかかって、彼らの奉ずる「エスペラント主義」に都合の悪い事実(プロ・エスの「同志」たちの弾圧も含む)から目を背け続けた結果、理論は稚拙でも事実を批判する見識や勇気を持つことができなかった、ということではなかろうか。

ホマラニスモと日本エスペラント学会(参考)

JEIの主流の人たちは、ヒューマニストだったのだろうか?それとも、エスペラントを単なる道具とみなしている人ばかりだったのだろうか。
朝比賀昇「日本エスペラント学会50年のあゆみ(2)」(La Revuo Orienta 1970年3月号)には次のようにある。

ホマラニスモ

1923年5月にプリヴァの《愛の人ザメンホフ》の訳書が出版された影響も手伝って、その頃のJEIには、ヒューマニズムの闘士というか、人類愛のためにエスペラントを拡めるのだという気風がみなぎっていた。

我々は偉大なる任務をザメンホフから授けられている。じっとしていてはすまない。吾々は働かねばならない。人類人主義の為に闘わねばならぬ。(RO 1923年4月)

不正な者、曲んだ者、不合理な者に対して正しく戦を宣告しうる者こそエスペランティストだ。(秋田雨雀『正則エスペラント講義録』1923)


こうした熱血に批判的だったのが千布であったが、千布の学会委員辞任の声明記事のすぐ後に「学会委員より」として

…実際学会で仕事をしている現委員の多くが盲目的人類愛主義者であってみれば、千布氏の(言語としてのエスペラント自体は何の政治的・倫理的立場や価値を支持しないので、学会としてもザメンホフ思想に傾倒すべきではないという)立場からはまことに遺憾ながら余儀なき次第…

とある。
朝比賀は続けて指摘する。

しかし、この人類愛主義は日本政府による朝鮮と中国の侵略には目をつむった。
…(関東大震災で、多くの朝鮮人・中国人が虐殺され、アナキスト社会主義者・労組活動家等が殺されたことに対して)人類人主義に燃えるJEIはR.O.誌にどのような意見を述べ、抗議を示したか? 震災にもめげず1号も休刊しなかったR.O.は「自然の暴力」と題する被災状況報告をのせただけで、エスペランチスト大杉の虐殺や、人類の一員であるはずの朝鮮人の死に対してはついに一度も触れず、「人間の暴力」に関しては石のような沈黙を守った。…こうして関東大震災は当時のJEIの人類愛の空想性とその限界をハッキリと証明したことになった。

はじめから日和見主義

こうしてみれば、中立主義日和見を合理化したのではなく、はじめから空想的理想主義の日和見的性格が「中立主義」で合理化された、というのが正確なのだろう。