Mi prezentos aliajn blogojn skribitajn per Esperanto al japanoj, cxar mi iom povas legi ilin en Esperanto.
Mi elektas blogon hazarde el blogaro.
せっかくエスペラントが少し読めるので、他のエスペラント語のブログを紹介します。
プロフィール
ヤーツェクさん、1958年生まれのポーランドの「静力学」(?)の技術者
http://www.ipernity.com/blog/39838/114413撃ちたくなかった青年について
ポーランドの南にあるMachowaの村に、さみしい村の墓地がある。たくさんの墓碑のなかに、一つ通行人の注意をひきつける石のお墓がある。その墓の写真には、若い・陽気な青年の写真が見えるのだが、その下の説明は次のようなことを教えてくれている。その青年は「ポーランドの住民たちを撃つのを拒んだので、ヴァール・マハト(ドイツ軍)によって処刑された」というのだ。その若者の墓碑にある名はオットー・シメックである。
私は、その射殺者であるよりも射殺されるほうを選んだその青年の写真を、本当に感動して見つめた。彼は一体何者なのだろうか。オットー・シメックはオーストリア人であった。彼は1925年にウイーンの貧しい鍵職人の家に生まれた。彼の母親は子どもたちの宗教的な教育に大変熱心であった。彼女は夫の死後、毎日の暮らしに必死だった。オットーは他の少年たちと似たような少年だったし、学校の勉強はあまり熱心でなかったらしい。それで彼のお姉さんはしばしば彼のために宿題をしてやったという。彼が13歳のときにオーストリアはドイツに併合された。暗い時代がやってきたのだ。ドイツのナチはヒトラーの指導の下に戦争を準備して、ヨーロッパの征服をもくろんだのだ。1939年に戦争は勃発した。オットーは徴兵された。前線に発つ前に彼は、自分は誰も殺さないよと家族に知らせた。
彼はまずユーゴスラビアに送られた。彼の連隊はビエロヴァル(クロアチア)でユーゴのパルチザンと戦った。ある戦闘では、ドイツ軍に包囲された家から走り出た女性と子どもを助けた。「何で殺さないんだ」と上官はわめきたてた。「僕の銃はこわれちゃってるんです」と青年は言った。そこで上官は自分の銃を与えて、「今ここで撃ち殺すんだ!」と言った。オットーは撃つ真似だけでは許してもらえないだろうということを悟った。そこで彼は、自分は女を撃ったりなんかできないと言った。上官は怒り狂って銃で彼をひどく殴りつけた。オットーはポーランドのクロヅコの軍人刑務所に送られたのであった。後に彼は母と姉妹たちの手配で、療養目的で短い退所許可を受けた。
その退所期間中に彼は母親に、手を血で汚さずに戦争から帰りたいのだと誓った。「僕は当たらないように射撃するようにするよ。さいごには全ての人が僕と同じように自分の家に帰ることを望むだろうさ」。ユーゴでのエピソードは彼の信念を曲げなかったということを、その言葉は証明するものであった。休暇の後オットーは占領されたポーランドへの移動を命じられた。タルナウとヤスロの近くに彼の師団は駐屯していた。彼はそのとき19歳だった。オットーは自分の振る舞い方を変えるようなことはまったくなかった。彼はしばしばポーランドの一般市民を助けたし、時には家族丸ごとを助けたことさえある。ドイツの指揮官が彼の態度を知ったとき、彼は逮捕された。青年は自分の立場を理解した。その失望の瞬間に彼はオーストリアに逃げることを決意した。しかしその決意は無駄だった。彼は捕まっていたしピルズノ(ポーランド)の独房に脱走兵として入れられたのである。彼にはまだ、赦免の機会があった。つまり、逮捕されたポーランド市民の銃殺に彼が参加するならば、彼の命は助かるというのである。オットーは拒否し、軍事法廷は彼に死刑判決を下した。青年は自分の命が失われるとわかって、彼の信念はいっそう固くなり、彼のあの言葉は決定的に強くなった。軍事法廷は彼を敵前逃亡で告発した。オットーは裁判で次のように証言した。私はヒトラーの敵などと名づけられた人たちとは戦いません。この戦争はドイツ人から仕掛けたものだし、キリスト教徒のやるようなことじゃないからです」。彼には死刑判決が下された。彼は1944年11月14日午前10時に銃殺刑となった。
彼の家族への離別の手紙、オットーの最後の言葉である。「泣かないでください。僕はお父さんのところに、喜んで行きます。僕はどんなときでも自分が神様の御手の中にあるんだということを知っています。全部神様がなさることなのです。僕のことも後々よりよい人生でありうるため語られるでしょう(?)。僕の調子は良いです。僕たちは、失うような何を持っていますか? 悲惨な生活以外、失うようなものは何もないでしょう? あいつらは僕たちの心までを殺すことはできないんですよ。なんと希望あることか! 従軍牧師は僕のところに来て、僕と一緒に祈って、僕の最後の道をいっしょに歩いてくれました。
オットー・シメックは暴力や非人間的な命令に対して「ノー」と言うことのできる人間たちのうちの一人であった。われわれは陸軍大将やら海軍大将やら戦争責任者を称えるために建てられた記念碑をいろんな場所でしばしば見つけることがある。しかし、だれが無名の青年のために記念碑を建てるだろうか。オットーはしかし立派な記念碑を持っている。それは人間の心の記念碑であるからだ。彼の姉のエルフリーダが1970年に彼の遺骨(?)をオーストリアに持ち帰ろうとしたとき、住民たちは彼女にそうしないように頼んだ。「彼は私たちのためになくなったのです。だから、わたしたちと一緒に居らせてください」。エルフリーダは了承した。オットーはポーランドの地に眠っている。そしてポーランドの木は彼の墓碑の上で「撃ちたくなかった青年」についての話をさやさやと語っているのである。
たしかにローマ字で読むにゃ長すぎますが。
それにしてもやっぱりポーランドの人の文は読みやすいですな。何か感覚が似ているのかな、日本人と。