id:Mukkeさんの「日本エスペラント学会が想像以上にヨーロッパ中心主義を標榜している件について」に次のようにコメントしました。
すでに少ない多くのコメント件数なのにであるうえ、それぞれコメントされた方が丁寧に書いておられたので、僕は短くしようと箇条書きにしてみたのですが、長くなってしまいました。他のブログで長々コメントするのは見苦しく読みにくくなってしまうので、消したいのですが、消し方がわかりません。id:Mukkeさん、こちらに書きましたので、消しておいていただけませんか。メールもわからないので、ここでお願いしておきます。また、コメントの最後のところは、このような言い方が論理として妥当かどうか、あまり確信がありません。
僕はエスペラントを勉強しながら、使っています。
僕も中立性について否定的な立場で考えて見たことがあります。Mukkeさんのように憤慨はしませんが、意見としては概ね賛成です。エスペラントの「中立性」は一定の範囲内であっても素晴らしい役割を発揮すると思いますが、
- 中立性が問題になる時、そこには不平等や格差、不当な支配などが未解決のまま横たわっていると思います。
- エスペラントもロジパンも社会的な不平等の根源を直接に解決したりはしないと思います。
- 「中立性」はつまるところその言語の使用者個人や団体の態度や行動に帰することになると思います。差別主義者でもエスペラントを喜んで使用することができるでしょう。植民地支配にエスペラントが検討されたこともあるとか、読んだことがある(気がします)。
- 「中立性」は時として、社会的な問題に対して「何もしない」、「何も言わない」ことを形式的に要求することがあります。
- だからといって言語格差が社会制度を歪めたり格差を固定している場合や地域があることを、軽視したり無視したりするわけには行かないと思います。(エスペラントがそれを解決するとは思いませんが。)
- 「中立性」の看板を下げるべきかどうか。僕個人としては歴史的なものだし、今時「エスペラントの中立性」に惹かれてそれを使う人も少ないので、そのままで良いとおもっています。
- エスペラントが「中立性」を掲げた背景もご存知でありながら、またそれがヨーロッパ系の言語ですと自ら説明しているのもお読みになっておられるのに、本文のように噛みつかねばならない理由が分かりません。今の憲法が掲げている諸原則と日本の現実とは非常にかけ離れているとMukkeさんもお思いと推察しますが、だから憲法や護憲派は欺瞞的だ、とはMukkeさんなら考えはしないと思うのですが、どうでしょうか。
このようにコメントしながら、自分が過去に中立性についてどのように書いたかもう一度記事を調べてみたので、記事をまとめてリストにしておこうと思います。
中立性について
- すこし順序だてて書いてみた記事。この記事の最後のほうにも、エスペラントの学習サイトによる紹介として、エスペランチストはそんなに中立性のことを考えたりはしない、むしろ気軽なコミュニケーションツールとして楽しまれている、というようなことが書いてあります。
エスペラントの「中立性」の積極的な主張が怪しく、時に欺瞞的であるということ
Cxu Esperanto estas justa ? / エスペラントは公平か?
- 「エスペラントは公平な言語だ」という答えを聞きたい人たちについて
「中立」ということの形式主義と無意味さについて
かなり中立な人工語。/ Tre neuxtrala arta lingvo, la "ARKA".
- 誰も知らない言語こそ最も「中立」な言語になる、という形式論。
- エスペラントとその話者との区別など
- 「中立」の難しさや無意味さ
- 「英語帝国主義」への反論記事について。
「中立」ということの積極的な面
- 「私たちの集会では、民族の強弱や特権の有無による差別はありません。誰一人としてへりくだったり、当惑する必要はないのです。私たちは、みんな中立という土台の上に立っています。」
植民地支配やその影響とエスペラントなど
- エスペラントが歴史的には「中立」と自称できること
- ギニアでは現地語が無価値になっていること
Ne-koloniigado de la spirito / 精神の非植民地化
- ギニアのみならず、アフリカの諸国で現地語が無価値になっていること