プロレタリア・エスペラント運動とそのエスペラント観

プロレタリア・エスペラント運動の言語としてのエスペラント観については、運動内でどのくらい共通のものであったのか知らないが、次のようなものがあった。すなわち、人類史的な展望の中で、生産力の発展と階級闘争の発展、労働者階級による権力奪取により、階級分裂と階級支配とにその根拠を持つ国家がなくなり、民族間の区別がなくなっていくなかで、言語も単一化していくが(スターリンによればそれはロシア語)、その過渡的な橋渡し言語がエスペラントであ(りう)る。
当然ながらこういう言語観・エスペラント観は「学問」的にはあまりに図式的なので、その妥当性が疑われる。




しかし、プロレタリア・エスペラント運動におけるエスペラントは、被抑圧階級・被抑圧民族間の連帯と情報交換、階級支配や帝国主義支配の現実を暴露し、階級闘争や民族解放のたたかいを鼓舞する文化芸術作品の創出の実践的なツールとして位置づけられていたものと考えられる。
ザメンホフのホマラニスモは、被抑圧民族とししてのユダヤ人、ポーランド人が創出したという点で素朴な民主主義的志向が肯定的に評価される一方、ホマラニスモに(のみ)基づく組織や運動は、現実社会の階級支配や階級闘争の必要性を覆い隠してしまうものとして「ブルジョア的」として、場合によっては(プロ・エスからの)否定や攻撃の対象となったと思われる。
実際にも「ブルジョアエスペラント運動」は「中立」を旗に反帝国主義・民族解放闘争や労働者の地位向上のたたかいからは一歩も二歩も離れて、かかわろうとはしなかったものと推察される(学者じゃないんで、丁寧に確かめてはいません)。


『プロレタリア・エスペラント講座』3巻には、次のようにある

ザメンホフの生れたのは1855年、その頃は丁度、西ヨーロッパの賓本主義の發逵とロシアに於ける封建的勢力との對立がポ一ランドに於いて激化していた頃である。...ザメンホフの生れたポーランドでは階級闘争は或はポーランド独立運動となり、或はポーランド貴族に對するポーランド民衆の民主主義的革命運動、發展となった頃である。…ポーランド階級闘争はかくして世界的に重要だった…。この環境に生れて育ったからザメンホフは子供ながらにも世界の問題を問題としたのであり、その思想は民主主義的であって尚權力者に對しては消極的ながら否定の態度をとっているのである。

プルヂヨア社會は一先づ世界市場を作り出したが同時に、その必然の矛盾のために世界を血ナマグサイ帝國主義者の對立に分割した如く、ブルヂヨア社会が作り出した世界語たる英語、フランス語、ドイツ語等々はその内容に無秩序、混乱、對立を持って居る。完全な世界語はプロタリアによってのみ実際に採用され、實際に役立てられ、完全に完成される。それは規則的であり、単純であり、個人の利益のみのためでなく、社會の利益のために統制され、管理される言葉である。