RIO+20 と エスペラント

RIO+20

僕の周りでは、なのか日本では「RIO+20」と言われてもピンとこないような状況であると思う。マスコミもほとんど取り上げないし、だいたい国会が公約していなかった消費税の強行や消費税と「引き換え」の社会保障「改革」のごり押しなどで大変だから。
それはここでは脇に置くとして、RIO+20とは何か。


Fiŝoj el abunda plasta botelo malplena.
Ili aperis sur la plaĝo "Botafogo" de la urbo RIO-de-Ĵanejro, kie okazis la kongreso RIO+20.

Ili tre plaĉas al mi. Tre bona senso, Kia bona gusto! Tio estas ja belartaĵo.



 RIO+20 が開催されるリオ・デ・ジャネイロボタフォゴビーチに現れたお魚くんたち。ペットボトルで作られているとか。すばらしい。すばらしいけど、後片付け大変。

外務省の紹介は分かりにくくて、画面の無駄なので省略。




国連のサイトは分かりやすい。

「リオ+20」とは、1992年のリオ地球サミットから20周年にあたる2012年6月にブラジルのリオデジャネイロで開催される「国連持続可能な開発会議」の略称です。リオ+20は、20年後に私たちが望む世界について考える機会でもあります。

リオ+20会議では、世界の指導者が民間企業、NGOなどのグループを代表する参加者と一堂に会し、過密が進む地球で、私たちがどのように貧困を削減し、社会的公正を高め、環境保護を確保できるかについて話し合います。

公式協議では、持続可能な開発を達成し、人々を貧困から救い出すには、どのようにグリーン・エコノミーを構築すればよいのか、および、持続可能な開発に向けた国際的調整をどう改善すべきか、という2つがメインテーマとなります。

リオ+20は、持続可能な未来に向けた道のりを定める歴史的な機会です。それはすなわち、雇用が拡大し、クリーン・エネルギーが普及し、安全が確保され、すべての人に人間らしい生活水準が保障される未来に他なりません。(国連事務総長

リオ+20はなぜ必要なのですか?

私たちが子孫に住みやすい世界を残すためには、貧困のまん延と環境破壊という課題に今すぐ取り組む必要があります。

  • 現在70億人を数える世界人口は、2050年までに90億人に達する。
  • 現在、世界の5人に1人にあたる14億人が、1日1ドル25セント以下で生活している。
  • 世界で電気を利用できない人々は、15億人に上る。
  • トイレがない人々は、25億人に上る。
  • およそ10億の人々が、日々飢えに苦しんでいる。
  • 温室効果ガス排出量は増え続けており、気候変動に歯止めがかからなければ、これまで確認されている生物種全体のうち、3分の1以上が絶滅する恐れがある。

1992年のリオ地球サミットでは、対策の基盤ができ上がりました。リオ+20は、私たちが共通の未来の確保に向け、ローカルに行動を起こせるよう、グローバルな思考を深める新たな機会となります。

http://unic.or.jp/rio20/

そのほかの報道を見ても、あまり内容がちゃんと伝わってくるような記事は少ないようだ。





世界エスペラント協会から

言語権のサイトの持続可能な開発会議のページには世界エスペラント協会による「提案」がエスペラントでなされ、各国語に訳され公表されている。日本語訳もPDFで読める。
提案の中心的なところをまとめると、

  1. 差別が世界的に広がっている現在、言語差別および小民族に対する大民族の文化覇権が明確に非難されねばならない。
  2. 言語教育は、極貧の撲滅と諸個人の自立のために重要であり、ユネスコも認めている。
  3. 国際語エスペラントは、経済社会的に中立である。
  4. 国際語エスペラントは、制度的教育にあっては民族語を尊重する。
  5. したがって国際語エスペラントは、第二外国語として広範囲に使用されれるにあたって本質的に持続可能な言語である。
  6. エスペラント第二外国語として広範に使用することは、全世界的な言語覇権から脱却し、倫理的に正しい解決に向かうコミュニケーションの道である。
  7. エスペラントが広範囲に使用されるには、平和と持続可能性を考慮した上で、最上位の国際機関で政治的な決定が強固になされることが必要



エスペラントはそんなに万能なの?

 上の「提案」は「持続可能な開発」ということに関して、僕の感覚とはかなりずれている。UEAがなんでもかんでも国際的な会議をエスペラントの宣伝の場にしようと強引に作文したように感じられる。






言語覇権

 まずは、詳しく触れられていない「言語覇権」の実態である。世界的な深刻な差別や貧困が「言語覇権」に根ざしていて、言語覇権を除去すれば差別や貧困が解決に向かうかどうか。
 英語や植民地時代の旧宗主国の支配言語が、ある国々や地域での経済格差を固定したり拡大したりしているであろうことは想像できる。しかし、差別と貧困が言語問題の解決によって解決に向かうかどうか。
 日本や欧米諸国内でさほど言語が社会的な処遇に影響を与えないだろう国や地域ですら貧富の格差が広がっているのにである。(だから逆に英語やその他の外国語を身につけることで「脱出」し「ぬきんでよう」とする動機も働きはする。)
 とにかく現状認識が決定的であって、僕としては提案に共感できるほどの現実の「極貧」や「言語権や文化権」破壊についての、知識も実感もない。それは知らない僕が悪いのかもしれない。


エスペラントでも使い捨て労働力は減りはしないだろう

 国際語エスペラントは経済社会的に中立、エスペラントは民族語を尊重する、というテーゼは強引であって、僕の考えでは間違っている。
 エスペラントを勧める人の中に、主観的にそう願ったり思ったりする人が存在しているであろうことは文章を見ればあきらかではあるが、残念ながら(?)エスペラントにそのような「効能」「性格」はあるはずがない。エスペラントに限らず、そのような言語は存在しえないと思う。
 また論理的にエスペラントが英語に代わって新たな「覇権」とならないという保証はどこにもない。前にも書いたが、エスペラントが普遍的な国際言語として普及すれば、エスペラントがビジネスと出世のための言語となり、エスペラントから遠い言語は滅びの勢いを強めるであろう。英語やその地域の支配語で同じことが起こっているように、エスペラントの習熟の度合いによって差別が固定されるだろうし、もしかしたら、英語よりもエスペラントによって「労働力の流動性」が、労働者の処遇にとって悪い方向で高まるかもしれない。つまり、使い捨て労働者が増えるだけになる可能性だってある。
 今、何百万人の人たちがアジアでも日本語を勉強しているが、韓国、中国、ベトナムと日本語を使える安価な労働力が増えているだけである。貧困地域に英語教育を無理やり持ち込んで第二外国語として、英語のレベルを上げたとしても同じだろう。エスペラントが「国際的に認められ」れば、同じことがエスペラントでも発生するだけではなかろうか。それが「極貧」をなくして少しマシな「貧困」に持ち上げる道なのだ、といわれれば、「そんなことを目標にして提言をするのか」と驚くだけだ。
 いずれにしてもどういうことでエスペラントが「持続可能」などといえるのかさっぱりわからん。


持続可能な開発

逆に持続不可能な開発になっちゃってる原因を丁寧に調べて、その責任者や動機、その悪開発の持っている時間的・空間的な責任性などを明らかにすべきではなかろうか。例えば原発は災害時にどうなるか、廃棄物をどうするかなどをきちんと考えずに、目先の利益の最大化ばかりを追って造られてるのではないですか? そこで働く労働者の「持続可能性」などどうでもよい労働の組織になっているのではないですか? 長距離バスの業者や労働者もそうだ。安ければよい、少しでも高ければ悪い。安全は誰かが死ぬまで省みられない。
こうしたことを解決しなければならないのではなかろうか。



これはあとで考えてみる。

持続可能な開発のための教育

人類の未来をより良い状態へと変えるための手法のひとつとされており、世界各国で生じている貧困、紛争、環境破壊や人権といったあらゆる問題を包括的に解決することを目指すものである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B6%9A%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%81%AA%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2


夜も遅いと怒られたので、今日はここまで。