美しい日本語 / Bela lingvo la Japana.

前に、「美しく正しい日本語」なくして何の「外国語」ぞと書いたことがあった。それは、「日本がすべての面で中国に負けてしまって、人口を養えなくなってしまうから、負けても他国に相手にしてもらえるように、日本語を話せる非日本人を増やすべきであって、そのためには日本語を簡略化すべき」という、中国に何かで「負ける」だろうという推測以外、何一つ賛成できない意見に関する「反射」を書いたときであった。
太平洋戦争中に、日本軍かその関係機関の一部は占領した「南方」において、日本語をいち早く普及し、大日本帝国イデオロギーと軍と日本語の影響と支配を強化するために日本語の簡略化を図ったそうだが、こんどは他国に阿るために簡略化すべきだという。まあ、そのことはここでは触れない。

カタカナ語が氾濫する現在の状況は、奈良朝から平安朝の漢語輸入時代と少しも変わらない。このような一知半解の外来語の洪水で、日本人の思考力はどのようになってしまうのだろう。漢語とおなじようにカタカナ語和製漢語にして日本語化する可能性は十分考えられるが……私がいちばん憂えるのは、日本語の骨格そのものまでが崩れて、そのあげく変質した日本語が思考や感情を奇妙にゆがめてしまうのではないか、という点である」……「日本人に課せられているのは、自分たちの精神を形作っている言葉、日本語の性格を、あらためて反省し、自覚し、的確な、そして美しい言語へと高めていくこと、それ以外にない」。このようにして「外来語」の排斥は、「正しい日本語」「美しい日本語」の主張へとつながっていくのです。


日本語はだれのものか (歴史文化ライブラリー)より、日本・日本語・日本人 (新潮選書)における大野晋氏の文の引用


この大野氏の主張はどうだろうか。ピッタリ自分の感覚と合う人と、違和感を感じる人と、反感を感じる人とあるだろう。
「正しい日本語」=「美しい日本語」だとして、方言はどうなるのか。例えば方言には古くから「ら抜き言葉」があるそうである。今の日本語から外来語をすべて取り去ってしまえば(ひらがなと漢字、カタカナの使用は許してもらうとして)何も表現することはできまい。今の漢語の多くは明治時代に作られたものらしいし、それを捨てれば武家候文と町人言葉と田舎の諸々の方言になってしまうかもしれん。
じゃあ、「正しい日本語」=「美しい日本語」には方言をも擁するような幅の広いものだとする。そうするとその「幅」には「なります言葉」や「ら抜き言葉」(僕個人はどちらも好きじゃない)も新方言として含めなければなるまい。それぞれ使用者はまじめに使っているのだし、とりあえず通じているのだから。「ヤバイ」という便利な単語もそうだ。


そんなのはあかん! 明治くらいの時代の文章がええんや、という人もいるかもしれないが、明治の文章はけっこうハチャメチャである。
たとえば、たけくらべ樋口一葉)ひとつ見ても、こんな調子の文章を現代に書いていたら、どこにも通用しないだろう。


確かに現代において、「正しい」とされる言葉づかいはあるし、「活用」の「法則」もある。しかし、歴史を見れば、永遠に正しい日本語などないのであって、その時その時に「正しい」と「される」ものがあるだけなのである。
我々に求められるのは、「新しい言葉遣い、新しい外来語を排除しながら、排他的な『正しい・美しい日本語』=『美しい日本・美しい日本文化』などという幻想イデオロギーを作って、それにしがみつきながら若者と若者コトバを嘆いたり侮蔑したりする」のではないはずだ。


人工語エスペラントは、じゃあどうなのだろうか。人工語だから、ザメンホフの提示した諸法則は維持されるだろう。しかし、例えばアメリカで話者が増えれば増えるほどエスペラントの語彙の英語化は進むだろう。また、エスペラントには原型副詞とかいう反則単語ももともと存在するし、仕方のないことだが、諸語からの採取も恣意的であると思う。だから、malbon/a ではなく bad/a とか gud/a とかいう単語も使われるようになるかもしれない。語根 bon がすでに存在するって言っても、大量に使われて流通してしまえばどうしようもないにょん? とくに、使用頻度の低い語彙は英語に偏っていくであろう。

そして英語

面白かったのは「死ぬほど英語を勉強してきたからわかる、英語学習の限界」
http://anond.hatelabo.jp/20100620143255

この文の英語を、日本語、中国語、エスペラントその他に置き換えて読んでみると面白い。


実験

  • 「通じる英語」と、「上手に伝える英語」の間には、ものすごく深くて広い河がある。
  • 「通じる日本語」と,「上手に伝える日本語」の間には,ものすごく深くて広い河がある。
  • 「通じる中国語」と,「上手に伝える中国語」の間には,ものすごく深くて広い河がある。
  • 「通じるエスペラント」と,「上手に伝えるエスペラント」の間には,ものすごく深くて広い河がある。
  • 「通じる英語」を身に付けたばかりの日本人は、しばしば全能感に浸って事の本質を見誤る。英語の世界において、言葉を武器に戦うためには、「通じる英語」では全然足りないのである。
  • 「通じる日本語」を身に付けたばかりの外国人は、しばしば全能感に浸って事の本質を見誤る。日本語の世界において、言葉を武器に戦うためには、「通じる日本語」では全然足りないのである。
  • 「通じる中国語」を身に付けたばかりの日本人は、しばしば全能感に浸って事の本質を見誤る。中国語の世界において、言葉を武器に戦うためには、「通じる中国語」では全然足りないのである。
  • 学部生相手の授業を何コマか受け持つようになった。学期末の学生による授業評価がかなりきつかった。学生は皆「あいつの英語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。「頑張ってるのは分かるけど、英語があれでは尊敬できない」とも書かれた。
  • 学部生相手の授業を何コマか受け持つようになった。学期末の学生による授業評価がかなりきつかった。学生は皆「あいつの日本語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。「頑張ってるのは分かるけど、日本語があれでは尊敬できない」とも書かれた。
  • 学部生相手の授業を何コマか受け持つようになった。学期末の学生による授業評価がかなりきつかった。学生は皆「あいつの中国語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。「頑張ってるのは分かるけど、中国語があれでは尊敬できない」とも書かれた。
  • 学部生相手の授業を何コマか受け持つようになった。学期末の学生による授業評価がかなりきつかった。学生は皆「あいつのエスペラントはおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。「頑張ってるのは分かるけど、エスペラントがあれでは尊敬できない」とも書かれた。

ちょっと書きたいことがわからんくなってきたんで、おわり。