植民地台湾エスペラント運動史

松田はるひ「植民地台湾エスペラント運動史」(1977-78)

松田はるひとは、どういう人であろうか。人名事典を持っていないのでわからない。


1977年06月 p20= 緑の蔭で(1)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p20---23
1977年07月 p27= 緑の蔭で(2)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p27---29
1977年08月 p18= 緑の蔭で(3)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p18---22
1977年09月 p14= 緑の蔭で(4)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p14---19
1977年11月 p18= 緑の蔭で(5)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p18
1978年01月 p22= 緑の蔭で(6)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p22---24


Ⅰ 台湾の言語状況と日本の言語政策

1895年台湾は日清戦争の戦利品として日本の植民地となった。
台湾250万住民のうち、80パーセントが閩南語(びんなんご、ミンナンご)、10~12パーセントが客家語、高山族はマレー・ポリネシア系言語(10種類)、2万人ほどの清国兵官吏が北京官話を中心にさまざまな方言を話した。
北京官話以外は文字化されていなかった。支配者日本人は北京官話しか知らず、日本語-北京官話、北京官話-台湾語という二重通訳が必要であった。
台湾における日本の言語政策は一貫して日本語強要政策であった。日本による統治を円滑にするのに有用な台湾人の育成が求められた。ただし、ベースは「愚民化政策」であって、日本語教育に熱心というわけではなかった。
就学率も低く、高等教育を欲する台湾人は日本に留学したが、法律や政治を学ぶ場合は甚だしい妨害にあった。
日本人自身の閩南語学習は警察官や日本語を教える教員が、命令を一方的に伝えることを目的に習得した。

Ⅱ 台湾エスペラント運動の黎明

三井物産(台湾に多大な権益を有していた)の社員、児玉四郎は1913年、エスペラントの冊子を無料配布するなど、エスペラントの普及を始めた。
台湾の抗日武装闘争は終焉を迎えつつあった。また大逆事件日韓併合など、第一次世界大戦へ向かって「冬の時代」の様相を深めていた。
児玉は台湾のエスペランティスト第一号である蘇璧輝(貿易商)と共に講習を開始。は別に二葉亭四迷の「世界語」で学んでいた(1908年)。

1913年の講習会が終わった12月に日本エスペラント協会台湾支部が15人で結成された。
抗日武装闘争はまだ続いていたのでエスペラント運動にも警察の監視がつけられた。
台湾人がエスペラントを学ぶことは、日本語普及を妨害するもの、外国の不穏分子と結びつくためのもの、などと激しい攻撃や中傷に耐えなければならないことを意味した。新聞でもたびたび非難された。
過激な日本人アナキストや彼らと連帯していた台湾アナキストの多くがエスペランティストであった。
台湾に於けるエスペラント運動は児玉四郎が日本に帰った1915年以降下火になった。



第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)後の台湾

ここで、台湾のナショナリズムの運動、「台湾文化協会」、連温卿などについて予備知識があったほうがよさそうだ。いずれもWikipediaから(一部を要約したもの)。

台湾議会設置運動

1920年代初めから1930年代半ばにかけた台湾住民による運動で、台湾独自の議会設置を求めた。1910年代の抗日武装運動鎮圧後の最大の合法的大衆運動であった。
第一次世界大戦後、三・一独立運動や五四運動などの高まり、ウィルソン十四ヵ条・ロシア十一月革命に現れた民族自決容認の動きを受けて、東アジアでも民族意識が高揚した。このような動きを背景に京都帝国大学教授で植民政策学の権威であった山本美越乃朝鮮半島に独自の議会を認めることで植民地住民の不満を抑える提言を行った。それを知った東京在住の台湾人林献堂ら187名が1921年1月30日に帝国議会両院に対して「台湾議会設置請願書」を提出した。同年10月には民族主義活動家を結集して「台湾文化協会」が発足し、同団体を中心に議会設置運動が展開された。…」
「1934年に入ると、国家主義の高揚を背景とした台湾総督府満洲事変に伴う治安強化策を名目として請願運動家に対する有形・無形の強圧を加えた。その結果、同年9月2日に活動家たちは台湾総督府に対して今後運動は行わない事を約束させられることとなった。翌1935年、中川健蔵総督が地方自治制を導入したことで地主・有産層は妥協し運動は完全に終結した。これ以後総督府専制に反対する台湾人の声は完全に圧殺され、台湾は日本の「南進基地」として総力戦体制に組み込まれていくことになる。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾議会設置運動




台湾文化協会

1921年渭水が提唱し林献堂が中心的に活動して設立。医師、学卒者、海外留学経験者を中心に1000名超が設立大会に出席。設立時の主要人物の中には王敏川蔡培火連温卿などもいた。
文化協会は台湾に知識・文化をもたらすことを目的としていたが、設立の同年に始まった台湾議会設置請願運動という政治的な活動と車の両輪であった。
1927年から左右両派の対立が表面化し、王敏川連温卿ら左派を忌避して右派が退会、右派の渭水蔡培火らは台湾初の合法政党「台湾民衆党」を設立した(1927)。一方左派は新文協を結成。
新文協は講演会活動を継続させ、農民労働者運動に積極的に介入した。しかし、まもなく王敏川連温卿が対立し、活動が衰退。まもなく連温卿派が失脚し、台湾共産党の附属組織となったが1930年、組織分裂や会員逮捕により消滅した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾文化協会




連温卿(1894-1957)

1913年言語問題が社会矛盾の原因としてエスペラント運動に参加。社会主義や社会科学研究も行い、1923年渭水らとともに「社会問題研究会」設立(警察取り締まりのため解散し「台北青年会」結成)。
山口小静を介して日本の社会主義者山川均接触し影響を受けた。後に、台湾共産党の影響が強かった新文協では穏健思想のは地域主義、分裂主義者などと批判され1929年新文協を除籍され、これを機に政治活動からも引退した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/連温卿




なお、La Revuo Orienta 1936年6月号には連温卿の「台湾エスペラント運動の回顧」という記事がある。その他、比嘉春潮琉球エスペラント運動回顧」、磯崎巌伊東三郎)「僕の思ひ出、なにが僕をエスペランチストにしたか」、山鹿泰治「数々の思ひ出」、神近市子「廿年前のこと」など、この号には興味深い人物がエセーを日本語で寄せている。

Ⅲ エスペラント運動の隆盛と分裂

児玉が去ったあと、休止の状態であったエスペラント運動がどのように再興したのかはよくわからない。しかし、日本の進歩的知識人が何らかの形でエスペラント運動に興味を持ったように、第一次世界大戦後に台湾の知識人もエスペラント学習を欲し、第一次世界大戦後に本格的な発展を見せた。講習会を開催すると100人以上の講習性が殺到することもしばしばで、日本人官吏、台湾人教師、台湾医学専門学校の学生などが多かった。
1919年より機関誌 Verda Ombro が台湾エスペラント学会(日本エスペラント学会台湾支部)から発行された。ある時期まで Verda Ombro は三井物産上林熊雄(台湾エスペラント学会会長)によって経済的に支えられた。
1920年台北での講習会を指導したのは主として連温卿であった。この頃は国際連盟によるエスペラントの採用、世界中の教育の場でのエスペラント第二外国語化、エスペラントによる世界融和などが無邪気に語られていた、という。


しかし、台湾エスペラント学会の加入資格として日本語の理解が定められていたほか、「台湾人はまず日本語に通じるべきで、日本語を理解しないうちにエスペラントに限らず外国語を学ぶのは間違っている」(蘇璧輝)とされ、またエスペラントを学ぶことは前述のように反日(語)的とされ官憲からも監視される対象となった。


こうしたユートピア主義的なエスペラント運動の体質は、ナショナリズムの高揚の中1921年台湾文化協会の設立を機に変化を始めた。とりわけ連温卿山口小静の邂逅は決定的であった。
山口山川均に紹介し、マルクス主義研究会を開き、は精神的経済的援助を山川から受けつつ理論武装していく。山川双方の友人であった比嘉春潮が手紙や資金のパイプ役となった。

エスペラント講習会申込者は、日ごとに増し時には100人を越え、絶えず講習会が開催された。1922年の「Verda Ombro」は、国際連盟のこと、台湾議会設置請願運動やそれに重ね合せたガンジータゴールの思想、アヘンのこと、中国やソ連の様子、文字と言語、植民地における言語政策の問題、エロシェンコの小説、ザメンホフの「外交官への手紙」、ロマン・ローランの「人類解放の武器はエスペラント」等々の記事を掲載」した。

が精神の自由を実現しようと政治運動とかかわっていくにつれ、…日台人エスペランチストの連帯は崩壊してゆく。

台湾総督府に反抗を示すらの行動は、エスペラント運動とエスペランティストは権力による弾圧や干渉を招いた。1923年3月山口小静が死ぬとエスペラントの流行熱も冷めていく。各地の講習会も警察の妨害などにより開催できなくなっていった。
1923年には(?)153人の名前を載せていた台湾エスペラント学会は1922年後半から日本人が次々脱会していく。らが社会運動や社会主義運動に挺身し、「台湾議会期成同盟会」会員らが検挙されるなどする経過とともに、台湾人もエスペラント運動を継続することができず、日本人も「当惑」し、ついて行けなくなったのであろう。日本人にとって台湾人エスペランティストの反体制行動はエスペラント運動を弾圧する口実を当局に与えるものでしかなかった。
1922年頃より赤字だった台湾エスペラント学会は会員が減少し、学会費納入者が4%(1923年)、上林熊雄其の他日本人ら特別会員からの資金援助もなくなった。ら有力なエスペランティストは政治活動に忙しく、Verda Ombro も1924年には休刊となった。機関誌が休刊となるとエスペランティスト同士を繋いでいた情報の糸も切れ、地方は孤立し、衰退してしまったと思われる。


台湾人によるエスペラント運動は学会と共に崩壊状態となる。日本人は1925年に台北エスペラント学会を組織しJEIの支部を名乗った。台北エスペラント学会のメンバーは台湾総督府関連の官吏、教師、医師、銀行員など植民地日本社会のエリートたちであった。エスペラントは居心地の良い人畜無害なサロンであったであろう。
連温卿も1926年に Verda Ombro を再刊し運動を再興しようと試みるも、文化協会の分裂、に対する台湾共産党の苛烈な批判、日本での山川イズムの敗北など、エスペラントどころではない境遇であったと推察される。

Ⅳ 満州事変と皇民化政策

1931年満州事変を境に、日本は台湾を単なる収奪対象の植民地から「動かざる航空母艦」として重視するようになった。同時に台湾人・高地民族を軍夫として徴用し労務に就かせ、或いは兵隊として中国侵略に直接参加させた。台湾人の「同化」政策は「皇民化」政策に取って代わった。
日本や中国でエスペラント運動がマルクス主義とともに流行していたとき、台湾でも流行があった。1930年かららはエスペラントの研究会や講習会を開催し、1931年には台湾エスペラント学会と台北エスペラント学会等日本人エスペラント団体が合同で第一回台湾エスペラント大会が開催された。この大会では、趣味的・社交的エスペラントとプロレタリア解放を目指すエスペラントの潮流との食い違い・敵対が明らかになり、運動の一本化は不成立となった。また大会参加者121人のうち台湾人は18人(17人?)だけだった。
しかし、この大会後、台湾の労働者・農民の間でマルクス主義等と結びついて、エスペラントを学ぼうというものが増えた。台湾プロレタリアエスペラント運動の主体が何であったかは不明であるが、滅亡寸前の台湾共産党の影響が推測される。
1932年に開催された第二回台湾エスペラント大会は、その参加者135人中62人が台湾人で、そのうち60人が「革命的」な人々であった。警官と憲兵とが監視する中で開会されたこの大会のイニシアティブは台湾プロレタリア・エスペラント運動の人々であった。

台湾人による台湾エスペラント運動の終焉

松田はるひ氏による台湾エスペラントの historio は前述で終わっている(と思う)。
在台湾日本人によるエスペラント運動を「台湾エスペラント運動」と呼んで良いのだろうか。それが台湾の日本人以外の人々への普及を目指していたなら、そう呼んで良いのだろうか。ここでは、台湾人による台湾人のためのエスペラント普及・活用でないものは「台湾エスペラント運動」とは呼びたくないので、呼ばないことにする。


それでは「台湾エスペラント運動」の終焉はいつ・どこだと言えるのだろうか。
呂 美親氏の「日本統治下における台湾エスペラント運動研究」(恥ずかしながら全部は読んでいない)には、「満州事変が勃発したため、エスペラント運動はここでピリオドが打たれた」とあり、その典拠として松田はるひ氏のこの論文の参照を求めている。しかし、松田氏の記述は「(満州事変をはさんだ)二回にわたる台湾エスペラント大会は、運動の灯が消える直前のまぶしい輝きにも似たものであった」としか書いておらず、何をもって「ピリオド」としているのか不明である(読み落としあるか?)。
呂氏は満州事変以降の台湾におけるエスペラント運動について次のようにまとめている。

1932年5月に台湾エスペラン学会は、創立20周年記念として『Eelmentaj Lecionoj de Espranto』(初級エスペラント教科書)を発行した。満州事変以降の運動は、小規模でありながらも何らかの形で進められていたとわかる(正運動主体は不明)。1940 年代以降の台湾エスペラント運動
も実際の活動はほぼなかった。もちろん戦争の影響もあるが、台湾では皇民化運動による国語教育の急進が、エスペラント運動を阻む大きな原因となったであろう。

http://hdl.handle.net/10086/27814

植民地台湾では、皇民化運動のなかで政治上、文化上でさまざまな動員がなされたが、『台湾日日新報』に掲載されたエスペラント関連の記事は、1930年代後半からほぼなくなった。もちろん、例えば台湾エスペラント学会が高砂食堂で開催したエスペラント誕生50周年記念イベント『エスペラントを語る夕』や、台北エスペラント会が久しぶりに例会を行ったことなどはまだ掲載されているが、台湾エスペラント会であれ、台北エスペラント会であれ、1940年代以降には実際の活動は行われなくなった。

松田はるひ連載を読んで

エスペラントの学習・普及が、日本語の強制(学ぶことだけではなく、社会制度が日本語で運用される、現地語が通用しない、果ては禁止される)に対する反発から反抗・抵抗へと発展する限りにおいては、エスペラントは植民地解放になにがしかのプラスの空気をもたらしたであろう。また、植民地を合理化しない・批判する言説の輸入のパイプ・媒体として機能する限り、それは「革命的」であったでうろう。しかし、それは被抑圧言語の復権・解放でもなければ、植民地解放でもないのであるから、所詮土着の言語以外を学ぶ余裕のあるエリートのおもちゃの域を脱することは、もともと難しいのではなかろうか。


また、抜きん出た諸個人によってエスペラント運動が担われているかぎり、その諸個人の運動外への退出はそのまま運動の終焉となる。運動は根無し草の寄せ集めでは継続できないものである。運動がその理念を拡げ、深く根を張るためには「組織」が必要であり、「組織」が生きて活動するには「機関紙誌」の発行が必要であり、構成員や影響を与えたい人々に読まれる必要がある。運動論のイロハであろう。


とすれば、余談だが、運動組織が掲げる運動課題が、楽しいレクリェーション行事などではなく、根深い社会問題(構造的で強者の利権を維持している)であり、その解決が困難であればあるほど、組織はその機関紙誌をよく読んでもらうことが必須になってくるだろう。


ところで日本の現在のエスペラント組織も会員の減少と高齢化とに見舞われている。エスペラント組織が失われるなら、もともと日本社会に必須でもなんでもないエスペラント運動などパラパラと学習者が残るのみで、一瞬で消滅するのではなかろうか。
かつての台湾エスペラント運動や世界のプロエス運動は、エスペラントが闘いや通信の道具であり、武器であるという点で、運動の発生には一定の根拠があった。
現代日本においてエスペラント運動は存立の根拠を持っているだろうか。その根拠はエスペラント運動を担う人々自身によって常に創出され・確かなものにされなければ、いわば「ニュー・ラテン語」のように趣味の段ボール箱の中でホコリをかぶって忘れ去られてしまうのではなかろうか。