『星条旗の聞こえない部屋』

もう、古い作品になるのかもしれないが、ぼくにとって、これの面白いところは、自立した人格というものがコミュニケーションの上に存立する(但し、厳密にはそれは人格の重要ではあるが、一側面に過ぎない)、ということが「記録」されているからである。
作者リービは、(文言はうろ覚えだが)英語という貨幣を流通させる、というようなことを言っている*1。彼は見た目がガイジンなので、英語をふんだんに持っていて、英語というコインをチャラチャラさせるだけで学生たちは、型どおりの挨拶や「模範会話文」を手に寄ってくるのである。
ところが、彼が流暢にであっても、日本語を流通させようとすると、どうなるか。「おじょうずですね」「日本に住んでいるのですか」などと距離を置かれ、ガイジンなのに日本語を話すということを受け入れてもらえない。彼は日本語では珍しがられても、人格としては認められないのである。
加えて、彼はまだ日本語をよく理解しないので、人の話している言葉は「カケラ」しか分からず、音がダイレクトに耳から脳に流れ込み・流れ去っていくだけである。
言語を貨幣にたとえたのは正しかったし、文学的にも面白い効果があった。彼は、駅前で浮浪者が小銭やタバコの吸殻を拾うように、日本人の口からはじき出される(彼が捕捉出来た)言葉のカケラを拾い集め、ポケット一杯にして家に帰る。ポケット一杯の幻の帝国の古銭を一枚一枚手にしては灯にかざしてはそれを覚えこもうとする*2。(今、本書が手元にないのでうろ覚え。→脚注に。)


ある日、「しんじゅく」(新宿でもシンジュクでもない)を自分も知っている、ということから初めて日本語が流通した実感を得て、ヘレンケラー的に世界の開けていくのを実感するのだが、それは書いているように自らの存立が確かなものになるプロセスの始まりでもあった。(Homo, la personeco ekzistas sur la tensio de la lingvoに書いた。)


自分の言葉、自分の経験、自分の能力、自分の発露、自分の表現が貨幣として流通する、だからそこに居ることが許される、逆に自分の軌跡、自分の持ち球が何も流通しないところでは人はそこには居れないのである。存立し得ないのである。激しい疎外感が人を襲うことになる。
そういうことを記録しているというところがぼくには興味深かった。


このことは、つまり、就職難に喘いでいる青年たちにすれば、自分自身の問題でもあるはずなのだ。
もう一つ、他民族の地域・多言語の地域、それはいずれ・あるいはすでに日本もそうであるかもしれない、にあっては言語の問題が経済の問題であると同時に自立の問題としても、困難として青年たちの前に立ちはだかることになる。


就職できない苦悩、自分の努力や自分のまじめさが社会に受け入れられず、使い捨てのような短期雇用やパート・アルバイトでしか認められないという苦しさを、沢山の青年たち、そしておじさんたちも持っているはずなのに、あまりそういう声を目にし耳にすることがないのが不思議な気がする。ぼくの生息域がそうした人たちと違うところにあるのだろうか。
もっともっと声を上げて良いはずだ。

*1:「英語の部屋、英語が貨幣価値を持って支配するこの部屋。」

*2:「駅前の浮浪者たちが歩道に散らばっている吸殻と五円玉を拾うように、ベンは日本人の口からはじき出されることばのかけらを拾いながら歩いて行った。そして日本語のばら銭を心のポケットにおさめたまま、……もどった。夜おそく、……自分の寝室の中で、幻の帝国から持って帰ってきた貴重な古銭を一枚々々灯にかざすように、日本人のことばを一つ一つ思い浮かべては、必死になって暗記しようとするのだった。」