新渡戸の朝鮮 / Koreio kaj NITOBE-Inazo

田中慎一「新渡戸稲造と朝鮮」『季刊 三千里』34号(三千里社1984年)より(メモ)

矢内原忠雄のノートによる1910年9月13日の一高入学式における新渡戸稲造の演説

九月十三日入学式雨天
校長演説

○この八月は誠に忘れ難き月である。一つは全国各地の水害で、損害額三千万円内外といふことである。〔略〕
○次に忘れることの出来ないのは朝鮮併合の事である。之は実に文字通り千載一遇である。我が国は一躍してドイツ、フランス、スペインなどよりも広大なる面積を有つこととなった。又諸君が演説なり文章なりで思想を伝へ得る範囲が、急に一千万人も拡がったのである。今能登の北端の岬の処に中似割圃罰斗司刈十里ほどの半径で以て円を描けば、北海道と九州と朝鮮とが入り、丁度鴨緑江が境界になる。更に北緯四十度東経百三十五度の辺に中心を移し、三百二十里ほどの半径で以て円を描けば、遼東半島、南満洲が入り、樺太も丁度北緯五十度の処まで入る。更にも少し中心を転じて三百八十里ほどの半径にすれば、ハルビンは勿論、北満州チチハル迄も円内に入ってしまふ。我々は之で何も外国の土地を侵略しようなどといふ考はないのであるが事実は事実として拡がるものである。既に第一の円は実現せられた。とにかく今や我が国はヨーロッパの諸国よりも大国となったのである。諸君は急に大きくなつたのである。一箇月前の日本と今の日本とはすでに違っているのである。

1906年10月、京畿道水原で執筆した「亡国」というエッセー

朝鮮はかつて栄華を誇りながら今や衰退しつつあり、無為に日を送る壮年層や、過重の労苦を負う婦女子・若年層といった望象なき民衆が放置されたままの疲弊した社会であり、その栄枯盛衰の様はイベリア半島の古都で見聞した遺跡を想起せしめるほどであるとされ、このような変貌の由縁は気候風土にも人民にも求められずして、ただ歴史の審判に委ねられている。

1906年11月、全羅北道全州で執筆した「枯死国朝鮮」というエッセー

…無常感あふれるぺシミスティックな基調を不変としつつも、また収穫期における朝鮮農民の生き生きした労働生活状態の一端を活写してその牧歌的質朴さを認めながらも、


「朝鮮の衰亡の罪を帰すべき所は、其国の気候にも非らず、又た其の土壌にも非らず。・・・:凡ての罪悪は彼によりて生ず」
「此国民の相貌と云ひ、生活の状態と云ひ、頗る温和、撲野且つ原始的にして、彼等は第二十世紀、はた第十世紀の民に非らず、否な第一世紀の民にだもあらずして、彼等は有史前紀に属するものなり」
「韓人生活の習風は、死の習風なり。彼等は民族的生活の期限を了りつ上あり。彼等が国民的生活の進路は殆ど過ぎたり。死は乃ち此半島を支配す」


というように、滅亡の危機に瀕しつつある現状をもたらした最大の要因が、朝鮮民族の頽廃的資質にあるかのよう.に強調されており、まどうことなきウルトラ停滞社会観が打ち出されるにいたっているのである。

1905年6月執筆の「戦後の事業」というエッセー

そこでは「韓国処分の問題」が日露戦後経営の一環に位置づけられている。すなわち、朝鮮民族は政治的本能が欠如し経済的常識に乏しく知識的野心が無いという資質をもっているから、このような薄弱な女性的国民は日本人の重荷となっている、したがって、日本は朝鮮という死せる国を復活せしめるため植民地経営に邇進しなければならない、というのである。

戦争終結後の1905年10月執筆の「日本の新責任」というエッセー

日露戦争の世界史的意義を、アジアのヨーロッパからの解放を合図するところの日本による新時代の幕あけに求めたものだが、そこでは日本のアジア植民地化が朝鮮支配である、と表明されている。

「基督教を善用せよ」(1910年10月25日付 東京毎日新聞

新渡戸は朝鮮における権力的なキリスト教排斥の動きを批判する。が、それは、弾圧が逆に宗教的団結を強める結果になることを危倶してのことなのだ。新渡戸は弾圧にかわる別案として、教会有力者にたいする一種の買収工作といった懐柔策を提案して自問自答したかと思うと、一転して、植民地民衆の精神的安らぎにはキリスト教こそ最上のものという、かれなりの深い洞察を開陳している。そこには、もはや同じキリスト教徒としての連帯感など微塵もない。あるのは、あしき宗教政策が余計な国際紛争を起こし、また被抑圧民族の反抗を必至化するとの見方から、キリスト教の効果的な利用を提言するという、まことに巧妙な植民地宗教政策論なのである。

「余裕あるを要す」(1910年11月3日・4日付 東京毎日新聞

新渡戸は従来各国が獲得した植民地のなかで、朝鮮ほど統治しやすい国はない、とする。その理由として、「国民的欠陥」があるが、これは植民地一般に共通のもので、むしろ朝鮮のぱあい、日本に近く、面積も大きすぎないので、日本の経済力に相当した植民地である、というのである。