円山事件 1950年

ウィキペディアによると

円山公園の暴動 - 1950年12月9日、市警が円山公園の労働者による集会を解散させようとしたところ暴動となった。警察側の負傷者は40人。108人に及ぶ拘束者を松原警察署に連行したところ、釈放を求める労働者らが警察署一帯を取り囲む騒ぎとなった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%AD%A6%E5%AF%9F

日本国民救援会京都府本部の「救援新聞」2021年6月15日(第19785号)によると下記の通りである。

 今年は、国民救援会京都府本部が結成されてから70年目にあたる。敗戦から間もない占領下の、1950年12月(9日:引用者)、円山公園音楽堂で開催した全官公の「越年決起大会」が公安条例で弾圧され107人が逮捕された。心ある労働組合、市民団体などの代表が当夜のうちに集まり「労農救援会」結成の準備会を結成、釈放要求、差し入れなどの休園運動を開始した。翌年、3月17日、役員体制も整え寺町市場下ル、の労働会館で「京都労農救援会」が産声をあげたのである。起訴された円山事件の被告18人の支援をはじめ、レッド・パージ反対闘争、山科刑務所拘置の人々への差し入れ、さらには松川事件白鳥事件の支援などへと展開するのであるが、中央本部へは52年11月、日本国民救援会第7回大会に代表を送り、そこで正式に加盟している。つまり、一般的によくあるように、中央本部の働きかけでなく、住民の期待と要求に応じて結成して自主、自立精神こそ京都府本部のアイデンティティであった。