ブラジルのエスペラントの歴史

これは歴史と言っても、ヘーゲル流に言えば、Geschihite ではなく単なる Historie にすぎないが。

翻訳の練習。

まあ、訳文の大きな間違いとか、かな入力の間違いとか教えてくださるとありがたいです。(言い回しが違うとかは、指摘していただいてもいただかなくても良いです。)日本語がヘンなところはたいてい誤訳だと思います。
あと、次の記事も参照。
ブラジル大統領、エスペラントに好意を示すエスペラント・ニュース:2009年8月)

 ブラジルにおける今日のエスペラント運動は、おおむね第二次世界大戦の頃に始まった。そのころヨーロッパのエスペラント運動は、弾圧によってほとんど壊滅していた。ブラジル人(の運動)は、自らの運動にヨーロッパのモデルを適用せず、生き残っていた。当時、ブラジル心霊主義連盟は、ブラジルにおける主要なエスペラント普及者の役割を果たしていた。
 ブラジル心霊主義連盟の活動は1909年より、エスペラントの教科書と辞書の「自由に使わせること」disponigo に重要な貢献をした。〔disponigo を使った文章の訳自体一般がなかなか理解できない私。〕
 Ismael Gomes Braga (1891-1969)の仕事は、ブラジル心霊主義連盟の非常に集中的なエスペラントに好意的な出版活動であった。それは1937年以降、今日まで続いている。また、数十年にわたるエスペランチストの募集は非常に有効であって、ブラジルのエスペラント運動は中立的でないと非難されるほどであった。まったく中立的なブラジルエスペラント連盟は、より活動的にエスペランチストを獲得するために他の宗教宗派のグループにおいて努力した。
 重要な組織、エスペランチスト文化協同組合は、リオデジャネイロにおいて1951年設立された。それが開催した複数の立派なセミナーは、エスペラントの国内大会と同じく盛況であって、1966年と1983年の間に開催された。
 1957年にはブラジルのエスペランチストは「ボーナ・エスペーロ」を設立した。ボーナ・エスペーロはその社会活動と遠方(国の中央部の Gojaso の Alto Paraiso )での学校の設立によっても有名になった。ボーナ・エスペーロのもっとも活発な活動は、Ursula Grattapaglia と Giuseppe Grattapaglia 夫妻が来てから始まった。彼らは1974年以降、会長を務めている。
 セアラー州の連合大学は Fortalezo にいわゆる「文化の家」(複数)を建設した。それは外国語の教育と活用のための別館である。 
1965年から1998年まで、そこでエスペラント・カルチャーハウスがあった。
 60年代の中庸には、多くのの青年エスペランチストのグループが全国に散らばった。そうしたグループは文化とスポーツ(を媒介としたエスペラントの普及)の活動を行った。とりわけリオデジャネイロ州セアラー州で青年文化が花ひらいた。1964年から Aloisio Sartorato、Paulo Sergio Viana、Francisco Wechsler その他の人たちがブラジルエスペラント連盟とエスペラント文化協同組合の本部で会合し、ブラジルに TEJO(世界エスペラント青年機構)のブラジル支部を設立することについて話し合った。Fortalezo という非常に遠い地において、並行して同じ考えが若者たち Carlos Lima Melo、Cesar Barros Leal そして Roberto Passos Nogueira らの熱心なサークルにおいて現れた。これら二つのグループはブラジルのエスペラント大会で対面し、TEJO ブラジル支部の設立のためにまず地方組織を確立することを決定した。このようにして Guanabara 青年エスペラント会と Ceara 青年エスペラント会が生まれたのである。次に Santos Dumont (Minas-Gxerajso)という小都市において、エスペラント文化協同組合の第二回エスペラントセミナーの初めに(枠内で)、30人の青年参加者がBEJO、すなわちブラジルエスペラント青年機構の設立を決定した。翌年にはBEJOはTEJOのブラジル支部として認められた。
 70年代の初め、当時は個人の自由が厳しく制限された独裁政治の時代、同時に強い抵抗運動の時代でもあった。ブラジルエスペラント青年機構のナタロ(東北の北リオ・グランド州)の3人のメンバーが、非合法の政治パンフを発行したとの罪で逮捕された。この事件によって、地方の青年エスペラントクラブが、ブルガリアや中国やバルト海の諸共和国(などの社会主義諸国からの)の定期刊行物を受け取っているのではないかとの嫌疑が持ち上がった。Surkoridore(直訳すると「廊下の上で」、転じて非公式に?あるいは密室ではなく「おおっぴらに」?) そのような学習者にそんな言語を学ぶのをやめるよう「勧めた」人もいた。「それはキューバの言語だ」と。
 Neia Lucia de Souza と Ciro Gomes de Freitas やその他の活動によって、ブラジルエスペラント青年機構は、新しい、そしてとりわけ活発な時期を1975年から経験する。すでに22回のブラジルエスペラント青年大会が実現されていた。1993年からは、同時に同じ場所でブラジルエスペラント連盟のブラジル大会も開催されるようになった。
1996年以降は、ブラジルエスペラント青年機構によって打ち立てられた反撃運動(Rebato-Servo 雑誌などによる間違った情報に対して、反撃の投稿を行う)は、100人の人々を(エスペラントの側に)獲得した。
 ブラジルにおける強力かつ純粋に青年向けのエスペラント運動の確立に対する(ある意味積極的な)障害の一つは、若いエスペランチストたちが、地方と全国の運動の構造にほとんど完全に溶け込んでしまっていることである。青年エスペランチストたちは教師となり、役員となり、地方のエスペラントクラブの会長にすら就任している。一般的に全く調和的に他の諸世代の人たちと活動を共にしている。
 秀でた作家、詩人、翻訳者たちがブラジルのエスペランチストの中に存在する。Luiz da Costa Porto Carreiro Neto, Ismel Gomes Braga, Sylla Chave, Geraldo Mattos, Leopoldo Knoedt, Benedicto Silva, Roberto Passos Nogueira など、これらの人たちはほんの一例である。南部の都市 Chapeco にて、Gresi Alfredo Bays の出版社 FONTO は、エスペランチストのブラジルと国際文化協会にとって非常に重要である。長年にわたり文芸雑誌 FONTO とエスペラントオリジナルや翻訳の大きなシリーズを出版した。数年前に、Evaldo Pauli 教授、世界哲学会の会長は、Florianopolis において大部になる「エンサイクロペディア・シンポジウム」の編纂の調整を行っている。これは Sankta Katarino 州立大学が支援している。
 1973年に危機が始まった。エスペラント文化協同組合は、世界エスペラント協会(UEA)の仲介者として自らを申し出た。ベオグラードでUEAの委員はブラジルにおける第二の代表組織として認めることに同意した。ブラジルエスペラント連盟は、抗議して国の代表組織の座を辞した。
 ブラジルのエスペラント顧問団が1974年に設立されてた。それは Francisco Almada を議長とし、国のエスペラント運動を統一することを目的とした。顧問団は成功裏に四回の大会を実現させた(1980年 Juiz de Fora、1982年ブラジリア、1983年は Olinda で)。
 1975年にブラジルの国際教育者エスペランチスト連盟が創設された。2002年まで、Elvira Fontes (UEA名誉会員)の指導を受けた。
 Sylla Chaves が1977年にブラジルエスペラント連盟の議長になった。彼の諸措置によって、連盟は再びUEAのブラジル代表団体となった。国内の諸組織の再接近のためにさまざまな接触がなされている。
 運動の危機にもかかわらず、1978年には Marilia 市で第一回ラテンアメリカエスペラント大会が開催された。11カ国から420人の参加者があった。Marilia 市では国内のエスペラント組織の議長たち… Sylla Chaves - ブラジルエスペラント協会、Braz Cosenza - エスペラント文化協同組合、そして Francisco Almada - ブラジルエスペラント顧問団…が、UEAに対してこれら諸組織と一緒に活動するよう要請する文書に共同署名した。ブラジリアでは1981年に第66回エスペラント世界大会が開催された。Fernando Galvao Marinho は1981年にブラジルエスペラント連盟の議長に選出された。当時の文化協同組合やブラジルエスペラントクラブ(リオデジャネイロの組織)の議長たちも連盟の顧問団に選出された。しかし、この二重人事の例外的な事態は1985年まで続いた。三人の議長たちは別に国内エスペラント委員会を構成した。
 1983年、Ouro Preto において、Victor Sadler (イギリスのE-isto、後のUEA会長)の出席のもと、三つの組織はそれ以降単一のブラジル大会を開催する旨、決定した。Kampinaso 市は20回エスペラント大会の本部であった。その大会は「ブラジルエスペラント運動の統合」をテーマに、1984年に数百人の参加者を集めた。
 続いて1985年、文化協同組合は自らのUEAの代表組織としての役割をブラジルエスペラント連盟に譲った。同年12月14日にブラジルエスペラント連盟と、ブラジルエスペラント顧問団とは合併した。Nelson Pereira de Souza はその議長に選ばれ、1986年7月31日に、ブラジルエスペラント連盟はその法的な本部を首都ブラジルにおいた。それは今日において、17の州の組織と未組織のエスペランチストたちをもを連邦評議会に結びつけている。百のエスペラント組織、クラブ、グループが協力して活動している。エスペラント連盟の書籍販売部は多くの商品を取り扱っている。すでに37回ものブラジルエスペラント大会が開催され、近年にあっては参加者は300人から700人である。
 SAT(民族性なき世界協会)はその61回大会を1988年にブラジルの Kampos do Jordao 市域において開催した。Gilbert Ledon と Symilde Schenk Ledon 夫妻はその主要な地元組織者である。
UEAの「アメリカ行動」は1992年のViena世界大会中、ブラジル、キューバ、ベネズェラの地方代表者たちとUEAの会長の会議を再確立した。
 1993年の初め、……これは、インターネット世界の前史である……オランダにおいて、「ネットでアクセス可能なエスペランチスト住所録」の編纂が始まった。34ヶ国、300人の名前がリストアップされた。またその中には4人のブラジル人と1つのクラブの名前があった。
1996年3月17日、最初のエスペラントクラブ創設90年であるが、初めてのポルトガル語によるエスペラント協会のホームページが立ち上がった。現在、ブラジルのホームページは数え切れないほどあり、エスペラントについてのさまざまなブラジルの討論のリスト、初心者用、エスペラント話者用、などがあって、数百人の人たちを擁している。
ネットでの文通クラスもたくさんある。これはブラジルで遠方の諸都市も含め、新しいエスペランチストを育成・獲得する重要なツールになっている。
 ブラジルエスペラント連盟は、メンバーが非常に多くなったので、2000年に第二本部(代議員?)を(A委員のために)UEAの委員会の中に設置できるようになった。現在、国内では23のエスペランチストの定期刊行物が発行されている。6つの地方もしくは宗教の放送曲が、エスペラントでかエスペラントについての番組を放送している。
だいたい20件くらいのエスペラント集会が100と50人くらいの参加者でブラジル中で年間に行われている。第58回世界エスペラント青年国際大会が Pato Branco 市で開催され、Fortalezo でのエスペラント世界大会は国中の大きな関心の的となった。

http://eo.wikipedia.org/wiki/Nuna_Esperanto-movado_en_Brazilo