Esperantisto OOGURI-Kiyomi / 大栗清実 1901−1980

メーリングリストから。


En la gazeto de la federacio de hospitaloj kaj zorgantoj, nomata "MIN-IREN" (Tut-japana federacio de demokratismaj hospitaloj) estas skribita unu malnova esperantisto, OOGURI-KIYOMI. Tion skribis lia filo OOGURI-Mar(u)to titolante "MIN-IREN kaj ". En 1929 la sola proleta deputito YAMAMOTO-SENZI estis murdata, je lia tranokta funebrado oni alvokis konstrui proletan kuracejon. OOGURI-Kiyomi priskribis la manuskripton.

Jen, la resumo de la artikolo de la gazeto rilate Esperanton:

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OOGURI-Kiyomi naskiĝis en la jaro 1902 en la gubernio TOKUSIMA kaj fariĝis kuracisto. En studentaj jaroj li lernis socia-sciencon kaj Esperanton, kaj li rimarkis problemojn de la kapitalismo.
Antaŭ diplomiĝi de OKAYAMA-Medicina Universitato li estis arestata je "la subpremego en la 15a de marto". Li apenaŭ diplomiĝis, sed li ne estis dungata de Universitato malgraŭ antaŭ-decido. Liaj amikoj, ISOZAKI-Iwao (gvidanto de Esperanto --- ITO-Saburo) kaj KURAMOTO-Toraichi (aktivulo de komunista partio) konsilis al li, li eklaboris en kliniko de setlemento (laborista kuracejo) en TOKIO.
En marto en 1933 tre granda tertremo kaj cunamo atakis nordo-orientan regionon de Japanio, nomata SANRIKU-Tertremego. Lia kliniko tuj sendis al damaĝejo kuraciston kaj flegistinon kun helpomaterialoj. Sed post nur 3 horoj de la komenco de kuracado, politika polico arestis ilin kaj resendis al Tokio. Kaj ankaŭ OOGURI-Kiyomi estis arestata en aŭgusto en sama jaro.
Li revenis al TOKUSIMA post liberiĝo, kaj post la milito li klopodis relevi la komunistan partion. Iom post iom multaj homoj kolektiĝis al lia hejmo kaj kunvenis. Ankaŭ esperanta rondo okazis regule. Estis tre gaja.
Verdire mi (la filo de OOGURI-Kiyomi) ne ŝatis mian nomon "Mar(u)to". Ĉar la japanlingva sono de mia nomo estis stranga. Sed mia patro klarigis la devenon de la nomo en la esperanta kunveno. "Mar(u)to estas la nomo de la tria monato el jaro. Kaj (la 15an) en marto politika polico subpremante arestis min." Kaj mi fariĝis ŝati mian nomon.

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全日本民主医療機関連合会の雑誌『民医連医療』2012年3月号に連載の「わたしと民医連」第37回に、「民医連と治安維持法」と題し「徳島 大栗 丸人(おおぐり まると)」さん(診療放射線技 師)が、氏の父大栗清実氏について書いておられます。
1929年、労農党の代議士山本宣治が暗殺されたその通夜の席で、労働者・農民・無産者の病院を設立しようとのアピールが発表されたが、その起草者が大栗清実氏でした、とのことです。


エスペラントに関する記事は以下の通りです。
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 大栗清実は、1902年、徳島県那珂郡大野村(現、阿南市大野町)に生まれ、県立富岡中学校、熊本第五高等学校、岡山医科大学とすすみましたが、その過程で、社会科学と、エスペラント語ポーランドの眼科医ザメンホフが考案し、1887年に発表した人工の国際語。ラテン系の語いを根幹とし、母音5、子音23を使用する。基礎単語数は1900ほど。日本では1906年に日本エスペラント協会を設立)を学び、資本主義の矛盾に直面しました。
 岡山医大卒業の前夜、「3.15弾圧」で検挙され、友人らの協力もあって卒業証書はなんとか受けとることはできたが、拘置所から出所後、予定していた医局への入局は拒否され、在学中から親交のあった磯崎 巌(ペンネーム、伊東三郎エスペラントの指導者)や、倉本虎一(共産党の活動家、のちに解放運動犠牲者救援会の幹部)らのすすめで東京の労働者診療所に籍を置くことになり、ここで、泉盈之進(歯科医)と出会い、彼の指導で思想的な成長を見た、と本人が述懐していました。
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 (終戦直後)徳島の共産党の再建の準備など、県下の諸々の人たちとの連絡に奔走する日々もさることながら、いつのまにやら、近郷、近在の人たちが話を聞きにやってくるようになり、そのうち自宅の2階でいろいろな会合が開かれるようになっていました。共産党の細胞(支部)会議、エスペラントの勉強会、社会科学研究会などなど、私と同世代の若者から、老若男女、多い日には30人ぐらいの人が2階の2部屋を通して大変にぎやかでした。
 私の名前、“丸人”の意味も、そんな中で知りました。幼年期はともかくとして、少年期になってからは、この名前が好きになれなかったのです。なにか軟弱なようなイメージと、アダナがつけられるのがイヤだったのです。マル、マルンド、ガンジンなど…。
 エスペラントの勉強会の席上、みんなの前で父が教えてくれました。丸人とは、"Marto"であり、エスペラント語で3月を意味すること、私の誕生日が3月であること、さらに、「3.15大弾圧」をも記念してと教えられ、いっぺんに自分の名前に親近感が湧いてきました。それまでのモヤモヤがとれて、今では自分の名前と深くつきあうようになりました。

エスペラントについての記事は以上です。

なお、当該の無産者診療所は1933年3月の三陸地震・大津波に際して看護婦と医師を現地に派遣したが、診療開始後わずか3時間で特高警察に検挙され東京に送り返され投獄(救援物資は届けられた)、大栗清実自身も8月には検挙されたとのことです(1年8ヵ月後に出所し、故郷徳島に帰って開業)。



大栗清実(国民救援会機関紙より)

抵抗の群像 大栗清實



山宣暗殺、4・16事件直後に
無産者診療所を開設した
大 栗 清 實

山宣 通夜の翌日から「記念病院」構想が

一九二九年三月五日、労農党の代議士、山本宣治が暗殺された。
治安維持法をさらに改悪しようとする動きに、帝国議会で敢然と一人で闘っていたことから、政府がさしむけたと思われる右翼の刺客に暗殺されたのである。通夜の席での憤激は、その翌日から「山宣記念病院」を作れとの構想が練られ、「戦旗」四月号に、大栗清實の起草によるアピールが発表された。泉盈之進、太田慶太郎らが中心となって発起人会をもち、病院設立基金募集委員会が発足。この会の発起人には、救援会、関東消費組合などの団体のほかに、個人では、安田_太郎、秋田雨雀、布施辰治、深尾須磨子、河崎なつ、大宅壮一ら有名人が多数顔を連ねていた。

わずか七カ月余で無産診療所が誕生

この壮大な計画は、成果を積上げて、わずか七カ月余で診療所設立にこぎつけたのであった。一九三〇年一月二六日、東京・大崎に、大栗清實を所長とする無産者診療所の誕生であった。これを契機に、日本の無産者医療運動は急速な発展を見たのであった。しかしながら侵略戦争を目論む弾圧の嵐は吹き止むことはなかった。開設からわずかに三年、一九三三年八月には、大栗清實ほか、大崎の従事者が次々に、逮捕・投獄され、診療所は事実上、閉鎖せざるを得なくなっていた。全国に数多く活動していた「無診」も次々と閉鎖に追いこまれ、最後まで頑張っていた新潟の「五泉診療所」も四一年四月弾圧によって閉鎖を余儀なくされ、短かったが、輝やかしい「無診」の歴史の幕を閉じたのであった。大栗清實は一九〇二年、徳島県那賀郡下大野町(現在の阿南市下大野町)で農家の長男として生まれた。旧制富岡中学校、第五高等学校、岡山医大へと進んだが、五高時代にエスペラント運動を通じて社会科学と出会い、岡山医大へ進んでからは、のちに救援会の活動家となる倉本虎一らの指導を受けて非合法文書の配布を受け持ったりしていたようである。岡大卒業の直前、三・一五関連で逮捕され、六カ月の未決拘留を余儀なくされた。「無診」閉鎖後、やむなく故郷へ帰り、三五年五月に隣村で診療所(普通の開業医)を開設、ここで一九八〇年までの生涯を過ごすことになるわけである。開業から終戦までの約十年は、彼にとって休養の時間であったかも知れない。唯一、この間の心の動きを知る手がかりがある。ほとんど日記をつけていなかった彼のメモの一節、一九三八年のある日。「今日は、翼賛壮年団の支部長を、なんとか引き受けずにすんだ、ヤレヤレ」―せめてもの抵抗が感じられる一節である。

戦後、共産党再建に参加 衆・参院選の候補者に

一九四五年、敗戦から間もない頃、いち早く後藤敏夫、松永信行らと日本共産党の再建に加わり、衆議院選挙、参議院選挙などの候補者活動を経験。一九五七年には松永信行、杉田治郎らと健生病院の土台となる「内町診療所」の開院に貢献した。晩年は、町民から「ある時払いの催促なし」の先生と慕われ、「息をせんのが体に一番悪いんじゃ」などとダジャレをまじえながら、死の数日前まで診察を続け、一九八〇年三月十七日、七八歳の生涯を終えた。
(長男・大栗丸人氏記)


不屈 395号 2007年5月15日

http://doumeinews.exblog.jp/5609353/


当時は日本語をもって社会科学に接したり、社会問題に向き合ったりすることが困難で、エスペラントなどとという窓(だけではなかろうが)を通じて、こういう医者というエリートが社会問題に眼を向けることができた、という時代であったことだろう。
追記:プロレタリア・エスペラント講座は昭和5〜6年(1930-31)頃のようだ。いわゆる3.15事件は昭和3年(1928)なので、大栗がプロ・エス講座の本で社会科学に出会ったというのはありえないが、プロレタリア科学研究所から、3.15の後に『講座』が出版されるくらいだから、相当数の社会主義者共産党シンパがプロ科とエスペラントの周りに結集していたのであろう。大栗が社会科学・貧困問題に眼を向けたのは、だから、エスペラント語によってというよりは、大栗が接触したエスペラント使用者がそういう眼を持っていた人物であった、ということであろう。