透子という名前

宮本顕治「百合子追想」1951.1.30より


 ただ、私は彼女の資質の中で、とくに光彩あるモメントとして彼女の小ブルジョア的打算を知らぬあの「純粋透明」なものへのあの全身的な羽搏きにやはり注目せざるをえない。「東京新聞」の青野季吉の『宮本百合子の文学』はこんな「純粋な」感情の持ち主が同時代人にいることを不思議と感じ、敬意と不満を感じたとのべている。そして、結論的には、懐疑や泥濘に傷つき足をとられない理想性や楽天性をむしろ否定的に評価している。このような批評の背後に、われわれが自然主義文学からモダニズムに至るまで、現代文学の老年から青年の一部に至るまでの共通の信仰---人間の弱さ、醜悪さへの安住の教義、エゴイズム文学への伝統的な陳腐な寄りかかりをみても不当ではあるまい。
 しかし、科学と深い洞察に裏づけられた「純粋」「透明」さこそ、人類社会を進歩と幸福へ導く人間の集団的実践における精神の灯でなくてはならぬ。ある偉大な革命家---現代最大の革命家はある演説の中で次のようにのべている。「われわれの相互の関係」は「水晶のように純粋で透明でなくてはならぬ」と。
 純粋な透明さが、より深く広い洞察と展望に裏づけられることこそ新しい時代の人間関係ののぞましい典型でなくてはならぬ。
 心ある人は、懐疑と泥水に傷つけられることを深刻と考えることの弱々しい陳腐さが資本主義の矛盾への屈伏から生じている秘密をたいした困難なく知りうるであろう。
 科学に裏づけられた深い洞察に立脚した理想性と楽天性が、人間に体得されるならば、それはまさしく偉大な人間革命である。百合子における「純粋透明」さは、まだまだこれらの革命家の語ったたくましい理想には距離があろう。しかし、それが、世界の新しい人間像の貴重な資質につながるものであることは否定できない。ソビエト映画、ソビエト文学が現代に加えた最大の寄与の一つは、資本主義の個人主義文学に脳髄を浸しながら成長した人間にとっては、どんなに「浅薄」な理想性、楽天性とみえようとも、懐疑と泥濘に足をとられない「純粋透明」な人間タイプの創造である。

先輩が知ってか知らずか、透子という名前を自分の子につけたと知って、激しく衝撃を受けた。