プロレタリアエスペラント運動の消滅の原因
朝比賀昇氏の言について、紹介したことがある。
1986年9月号のLa Revuo Orienta 誌に寄せた「プロレタリアエスペラント運動の闘士 岡 一太さんを悼む」の最後には次のようにあるのを見つけた。
https://esperanto.hatenablog.jp/entry/2020/08/27/221143プロエスの同志たちがエスペラントによる不屈の闘いを日本帝国主義に対して挑んだのは、長谷川テルがそうであったと同様に、彼らがザメンホフの精神を継ぐ正統の子であったからであろう。政治的偏向や闘争手段の拙劣さによって日本のプロエス運動はあえなく消え去ったが、帝国主義の巨大な歯車に果敢に立ちむかった抵抗の記録こそ私たちのエスペランティストの誇りでなければならぬとおもう。
この、褒めているのか貶しているのかわからない文の中で、アサヒガ氏は日本のプロレタリアエスペラント運動が「消え去った」のは、運動の側の「政治的偏向や闘争手段の拙劣さ」が原因だと追悼文にまで書いている。これには全く納得がいかない。プロレタリアエスペラント運動が消退してしまったのは絶対主義的天皇制下における治安維持法や特高などによる弾圧で、人的な担い手が拘禁されたり、萎縮してしまったりしたからではないのか。
ところで、治安維持法で挙げられた(まはた可能性のあった)エスペランティストは少なくない。
そもそもエスペラント自体が監視対象であったのだろう。
(敬称はすべて略)
追記:必ずしも「反戦」活動をしたというわけではない(そういう情報に欠ける例もあり)
高橋とみ子
24歳の命を奪われた高橋とみ子とは?
きょうの潮流 2014年11月21日(金)
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟
高橋さんは、一九〇九年仙台市に生まれ、尚絅(しょうけい)女学院を卒業しました。土屋文明が実名入りで短歌に詠んだ伊藤千代子も三年前に同校に一年在学しました。兄辰雄さんの影響でプロレタリア美術家同盟に加盟。エスペラント協会、共産青年同盟でも活動しました。仙台市の片倉製糸、旭紡績の女子工員たちに洋裁などを教えながら、日本労働組合全国協議会仙台支部結成の準備活動をしていました。
講演後の懇談で、当時の尚絅女学院では生徒が社会主義・共産主義とキリスト教をどのように結びつけるかを廊下などで活発に激論していたことが語られました。
2004年11月24日,「赤旗」
桑原一
https://www.hokkajda-esp-ligo.jp/jp/HEROLDO_PDF/Heroldo_N-ro18.pdf
日中一五年戦争
ある時、職場近くの個人病院の薬剤師であった年上の男性からエスペラント語をすすめられました。
病院の一室で仲間と学習したこともありましたが、ほとんどテキストによる独学でした。二〇歳頃のことです。
このエスペラント語は、世界の人たちと文通ができるという楽しみもありましたが、反戦、平和につながる活動だと思ったのです。国際通信活動で戦争の実態を知る
三、四年勉強した後、国際プロレタリアエスペランチスト同盟の活動を支持するようになり、その一つの活動として国際通信(PEK、ポエコ)を始めました。
ポエコの国際通信活動とは、エスペラント語の新聞や雑誌を翻訳して人々にその内容を広めること、日本の様子を外国へ書き送ることです。
私のところにはスペインや中国など各国から通信が送られてくるようになりました。
それで、ヨーロッパで起きている戦争や中国での日本軍のやっていることを知りました。
…
一九三七年一二月一五日、「人民戦線事件」といわれる、反戦・反ファッショなどの活動をしていた人々への全国一斉検挙が始まりました。
私は一七日、市営住宅で寝込みを襲われました。
早朝六時頃、ドンドンと戸をたたく音がしました。
三、四人の刑事が入ってきて、二人が私の両腕をがっしりつかんで釧路警察署まで連行したのです。
…
私がやっていたことは、戦争がなく、世界中と手をつなぎあえる、そういう社会を願って始めた国際通信活動です。
しかし、判決は「懲役一年、執行猶予五年」。治安維持法第一条の「目的遂行罪」として犯罪者にされたのです。
小林塩子(小林亜星の母)
小林亜星の『家族』〜作曲家妻と2人の息子…父親は役人、母親は劇団員 | 蜉蝣のカゾク
反体制エスペラント運動とかくされた歴史の暗部
(2ページ目)父は役人なのに母は脇に赤い本を… 小林亜星さんの一風変わった家庭環境とは | AERA dot. (アエラドット)
家ではおまけにエスペラント語を学ぶ会なんてのをやってまして。当時のことですから、世界言語だなんて集ってると特高が来るんです。「来たぞ!」ってんで、窓からみんな逃げてったの(笑)。私が5、6歳の頃ですから昭和12(37)、13(38)年の話です。
島崎敏一
反骨の記録 島崎敏一 特高監視のなか 世界30カ国と文通 [栃木県]:朝日新聞デジタル
反戦活動をしたわけではないが… 島崎も特別高等警察に監視された。特高課刑事の訪問を受けたことや手紙を翻訳して提出するよう命じられたことを日記に記し、不快感を示している。島崎は検挙を免れたが、山形県ではエスペラントなどの言語研究者が治安維持法違反で逮捕された。
久山専一郎さん
久山専一郎さん(M34-H2)は、エスペラントの達人であった。そのために1937年に岡山で特高にやられ、二日市の岡山刑務所で3年間の獄中生活を強いられた。
https://www.amazon.co.jp/抵抗の群像-第3集-機関誌「不屈」掲載-治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟/dp/B0B3MB349Z/ref=sr_1_1?qid=1703736177&s=books&sr=1-1
…昭和7年頃から…学び始め、間もなくプロレタリア・エスペラン地スト同盟員となって、その運動に参加した。…中国・ソ連と、…米・英・独・仏・蘭・西等各国に通信相手ができて、手紙を書くにも、来た手紙を読むにも辞書と首っ引きの忙しさだった。
しかし、昭和12年1月早朝四人の特高に踏み込まれ逮捕・拘禁される…懲役三年をくらう。
S-ro Oldulo の仲間
田舎で学徒動員で働く工場でエスペラントの独習を続けた私は、戦後、東京の仲間から「田舎はいいな。我々はエスペラントをやっているだけで特高に尾行されたよ]と聞かされた。
https://blog.goo.ne.jp/toi92/e/a76e5c06f974e7ca7dbffe4d04aaa09f
戦後60年、今の政治がその頃の日本に戻りつつあるようでたまらない。