栗栖継 sur la Revuo Orienta

栗栖継

下の表もROを検索したもの。「EKRELO」という連載が面白そうだ。連載第一回の冒頭の説明によれば、EKRELO とは Eldon-Kooperativo por Revolucia Esperanto-Literaturo の略で、SAT内の対立が激化していた1930年、SEU(Sovetrespublikara Esperantista Unio)を中心とするSAT反対派が設立した出版社のこと、とのことである。
ざっと斜めに拾っただけでは、EKRELOと栗栖の関係(はじめは両者の思想は一致していたらしい)や、執筆の動機はわからないけれど、読んでみたいと思う。

1943年08月 p12= 会員の動き:赤松定雄、栗栖継之進、鶴野六朗 p12
1949年07月 p26= 同じ太陽が世界を照らしている(栗栖継) … 三宅史平 p26-27
1949年09月 p28= Libro : 世界の声(栗栖継) … 三宅史平 p28
1949年10月 p33= 小坂賞は栗栖継氏に p33
1950年06月 p43= 個人消息:矢野笹雄、野島安太郎、栗栖継 p43
1956年03月 p18= わが子にエスペラントを教えて … 栗栖継 p18-19
1961年11月 p35= 消息: 南雲道夫、栗栖継、長井さと、ブラット夫人 p35
1968年04月 p20= Libro : Freŝa mateno … 栗栖継 p20-21
1968年04月 p33= 切抜帳: (読売新聞から) チェコエスペラント運動 … 栗栖継 p33
1971年04月 p17= これはこう言う … 菅原慶一、栗栖継、柴山純一、阪直、長野春穂 p17
1971年06月 p15= Tra Japanujo helpe de Verda Stelo… Oldřich Kníchal、 栗栖継 p15---17
1973年03月 p17= EKRELO (1) … 栗栖継 p17---26
1973年04月 p30= EKRELO (2) … 栗栖継 p30---36
1973年05月 p24= EKRELO (3) … 栗栖継 p24---26
1973年07月 p27= EKRELO (4) … 栗栖継 p27---36
1973年08月 p18= EKRELO (5) … 栗栖継 p18---24
1973年11月 p21= EKRELO (6) … 栗栖継 p21---26
1973年12月 p22= EKRELO (7) … 栗栖継 p22---28
1974年02月 p21= EKRELO (8) … 栗栖継 p21---28
1974年04月 p19= 社会主義を知る武器として … 栗栖継 p19
1974年06月 p24= EKRELO (9) … 栗栖継 p24---31
1974年07月 p11= EKRELO (10) … 栗栖継 p11---16
1974年08月 p12= EKRELO (11) … 栗栖継 p12---17
1974年10月 p17= EKRELO (12) … 栗栖継 p17---22
1974年10月 p40= ひろば: 今年の日本大会になぜ参加するか … 栗栖継 p40
1974年11月 p11= EKRELO (13) … 栗栖継 p11---16
1974年12月 p10= EKRELO (14) … 栗栖継 p10---15
1975年01月 p27= EKRELO (15) … 栗栖継 p27---32
1975年04月 p16= ひろば: UEAの委員改選で納得いかないこと … 栗栖継 p1617
1975年07月 p28= ひろば: UEAの問題をもっと積極的に … 栗栖継 p28
1976年11月 p24= エスペラントを育てた人びと(11) Ivo Lapenna … 栗栖継 p24
1978年03月 p24= 書評「La Kaŝita Vivo de Zamenhof」(1) … 栗栖継 p24-25
1979年04月 p27= 読書案内 … 図書部 林健栗栖継 p27-28
1984年09月 p15= 書評:Historio de la Esp-Movado en Ĉeĥoslovakio … 栗栖継 p15-16
1985年08月 p03= 98年前も、いまも、(栗栖継氏との会話) … 森田明 p3
1985年10月 p14= 周尭:ウィルキンソン教授との対話 … 栗栖継訳 p14-15
1986年05月 p32= 緑の友情 … 李威倫著、訳:栗栖継 p32---35
1988年10月 p43= 私の2さつ (48):Marta (Orzeszko著, Zamenhof訳)各版 … 栗栖継 p43
1998年02月 p29= 消息: 栗栖継 p29
2001年02月 p37= 消息: 栗栖継 p37
2004年06月 p23= "Batato" の記憶 … 栗栖継 p23---25
2004年06月 p151= "7000 tagoj en Siberio" の中国語訳出版を実現させよう … 栗栖継 p151-152
2006年03月 p20= 書評:# Recenzo : Taglibio de mia frato … 栗栖継 p20
2009年06月 p36= 訃報: 栗栖継 p36
2009年07月 p27= 追悼:栗栖継氏 … 柴山純一 p27<<

植民地台湾エスペラント運動史

松田はるひ「植民地台湾エスペラント運動史」(1977-78)

松田はるひとは、どういう人であろうか。人名事典を持っていないのでわからない。


1977年06月 p20= 緑の蔭で(1)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p20---23
1977年07月 p27= 緑の蔭で(2)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p27---29
1977年08月 p18= 緑の蔭で(3)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p18---22
1977年09月 p14= 緑の蔭で(4)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p14---19
1977年11月 p18= 緑の蔭で(5)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p18
1978年01月 p22= 緑の蔭で(6)---植民地台湾エスペラント運動史 … 松田はるひ p22---24


Ⅰ 台湾の言語状況と日本の言語政策

1895年台湾は日清戦争の戦利品として日本の植民地となった。
台湾250万住民のうち、80パーセントが閩南語(びんなんご、ミンナンご)、10~12パーセントが客家語、高山族はマレー・ポリネシア系言語(10種類)、2万人ほどの清国兵官吏が北京官話を中心にさまざまな方言を話した。
北京官話以外は文字化されていなかった。支配者日本人は北京官話しか知らず、日本語-北京官話、北京官話-台湾語という二重通訳が必要であった。
台湾における日本の言語政策は一貫して日本語強要政策であった。日本による統治を円滑にするのに有用な台湾人の育成が求められた。ただし、ベースは「愚民化政策」であって、日本語教育に熱心というわけではなかった。
就学率も低く、高等教育を欲する台湾人は日本に留学したが、法律や政治を学ぶ場合は甚だしい妨害にあった。
日本人自身の閩南語学習は警察官や日本語を教える教員が、命令を一方的に伝えることを目的に習得した。

Ⅱ 台湾エスペラント運動の黎明

三井物産(台湾に多大な権益を有していた)の社員、児玉四郎は1913年、エスペラントの冊子を無料配布するなど、エスペラントの普及を始めた。
台湾の抗日武装闘争は終焉を迎えつつあった。また大逆事件日韓併合など、第一次世界大戦へ向かって「冬の時代」の様相を深めていた。
児玉は台湾のエスペランティスト第一号である蘇璧輝(貿易商)と共に講習を開始。は別に二葉亭四迷の「世界語」で学んでいた(1908年)。

1913年の講習会が終わった12月に日本エスペラント協会台湾支部が15人で結成された。
抗日武装闘争はまだ続いていたのでエスペラント運動にも警察の監視がつけられた。
台湾人がエスペラントを学ぶことは、日本語普及を妨害するもの、外国の不穏分子と結びつくためのもの、などと激しい攻撃や中傷に耐えなければならないことを意味した。新聞でもたびたび非難された。
過激な日本人アナキストや彼らと連帯していた台湾アナキストの多くがエスペランティストであった。
台湾に於けるエスペラント運動は児玉四郎が日本に帰った1915年以降下火になった。



第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)後の台湾

ここで、台湾のナショナリズムの運動、「台湾文化協会」、連温卿などについて予備知識があったほうがよさそうだ。いずれもWikipediaから(一部を要約したもの)。

台湾議会設置運動

1920年代初めから1930年代半ばにかけた台湾住民による運動で、台湾独自の議会設置を求めた。1910年代の抗日武装運動鎮圧後の最大の合法的大衆運動であった。
第一次世界大戦後、三・一独立運動や五四運動などの高まり、ウィルソン十四ヵ条・ロシア十一月革命に現れた民族自決容認の動きを受けて、東アジアでも民族意識が高揚した。このような動きを背景に京都帝国大学教授で植民政策学の権威であった山本美越乃朝鮮半島に独自の議会を認めることで植民地住民の不満を抑える提言を行った。それを知った東京在住の台湾人林献堂ら187名が1921年1月30日に帝国議会両院に対して「台湾議会設置請願書」を提出した。同年10月には民族主義活動家を結集して「台湾文化協会」が発足し、同団体を中心に議会設置運動が展開された。…」
「1934年に入ると、国家主義の高揚を背景とした台湾総督府満洲事変に伴う治安強化策を名目として請願運動家に対する有形・無形の強圧を加えた。その結果、同年9月2日に活動家たちは台湾総督府に対して今後運動は行わない事を約束させられることとなった。翌1935年、中川健蔵総督が地方自治制を導入したことで地主・有産層は妥協し運動は完全に終結した。これ以後総督府専制に反対する台湾人の声は完全に圧殺され、台湾は日本の「南進基地」として総力戦体制に組み込まれていくことになる。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾議会設置運動




台湾文化協会

1921年渭水が提唱し林献堂が中心的に活動して設立。医師、学卒者、海外留学経験者を中心に1000名超が設立大会に出席。設立時の主要人物の中には王敏川蔡培火連温卿などもいた。
文化協会は台湾に知識・文化をもたらすことを目的としていたが、設立の同年に始まった台湾議会設置請願運動という政治的な活動と車の両輪であった。
1927年から左右両派の対立が表面化し、王敏川連温卿ら左派を忌避して右派が退会、右派の渭水蔡培火らは台湾初の合法政党「台湾民衆党」を設立した(1927)。一方左派は新文協を結成。
新文協は講演会活動を継続させ、農民労働者運動に積極的に介入した。しかし、まもなく王敏川連温卿が対立し、活動が衰退。まもなく連温卿派が失脚し、台湾共産党の附属組織となったが1930年、組織分裂や会員逮捕により消滅した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾文化協会




連温卿(1894-1957)

1913年言語問題が社会矛盾の原因としてエスペラント運動に参加。社会主義や社会科学研究も行い、1923年渭水らとともに「社会問題研究会」設立(警察取り締まりのため解散し「台北青年会」結成)。
山口小静を介して日本の社会主義者山川均接触し影響を受けた。後に、台湾共産党の影響が強かった新文協では穏健思想のは地域主義、分裂主義者などと批判され1929年新文協を除籍され、これを機に政治活動からも引退した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/連温卿




なお、La Revuo Orienta 1936年6月号には連温卿の「台湾エスペラント運動の回顧」という記事がある。その他、比嘉春潮琉球エスペラント運動回顧」、磯崎巌伊東三郎)「僕の思ひ出、なにが僕をエスペランチストにしたか」、山鹿泰治「数々の思ひ出」、神近市子「廿年前のこと」など、この号には興味深い人物がエセーを日本語で寄せている。

Ⅲ エスペラント運動の隆盛と分裂

児玉が去ったあと、休止の状態であったエスペラント運動がどのように再興したのかはよくわからない。しかし、日本の進歩的知識人が何らかの形でエスペラント運動に興味を持ったように、第一次世界大戦後に台湾の知識人もエスペラント学習を欲し、第一次世界大戦後に本格的な発展を見せた。講習会を開催すると100人以上の講習性が殺到することもしばしばで、日本人官吏、台湾人教師、台湾医学専門学校の学生などが多かった。
1919年より機関誌 Verda Ombro が台湾エスペラント学会(日本エスペラント学会台湾支部)から発行された。ある時期まで Verda Ombro は三井物産上林熊雄(台湾エスペラント学会会長)によって経済的に支えられた。
1920年台北での講習会を指導したのは主として連温卿であった。この頃は国際連盟によるエスペラントの採用、世界中の教育の場でのエスペラント第二外国語化、エスペラントによる世界融和などが無邪気に語られていた、という。


しかし、台湾エスペラント学会の加入資格として日本語の理解が定められていたほか、「台湾人はまず日本語に通じるべきで、日本語を理解しないうちにエスペラントに限らず外国語を学ぶのは間違っている」(蘇璧輝)とされ、またエスペラントを学ぶことは前述のように反日(語)的とされ官憲からも監視される対象となった。


こうしたユートピア主義的なエスペラント運動の体質は、ナショナリズムの高揚の中1921年台湾文化協会の設立を機に変化を始めた。とりわけ連温卿山口小静の邂逅は決定的であった。
山口山川均に紹介し、マルクス主義研究会を開き、は精神的経済的援助を山川から受けつつ理論武装していく。山川双方の友人であった比嘉春潮が手紙や資金のパイプ役となった。

エスペラント講習会申込者は、日ごとに増し時には100人を越え、絶えず講習会が開催された。1922年の「Verda Ombro」は、国際連盟のこと、台湾議会設置請願運動やそれに重ね合せたガンジータゴールの思想、アヘンのこと、中国やソ連の様子、文字と言語、植民地における言語政策の問題、エロシェンコの小説、ザメンホフの「外交官への手紙」、ロマン・ローランの「人類解放の武器はエスペラント」等々の記事を掲載」した。

が精神の自由を実現しようと政治運動とかかわっていくにつれ、…日台人エスペランチストの連帯は崩壊してゆく。

台湾総督府に反抗を示すらの行動は、エスペラント運動とエスペランティストは権力による弾圧や干渉を招いた。1923年3月山口小静が死ぬとエスペラントの流行熱も冷めていく。各地の講習会も警察の妨害などにより開催できなくなっていった。
1923年には(?)153人の名前を載せていた台湾エスペラント学会は1922年後半から日本人が次々脱会していく。らが社会運動や社会主義運動に挺身し、「台湾議会期成同盟会」会員らが検挙されるなどする経過とともに、台湾人もエスペラント運動を継続することができず、日本人も「当惑」し、ついて行けなくなったのであろう。日本人にとって台湾人エスペランティストの反体制行動はエスペラント運動を弾圧する口実を当局に与えるものでしかなかった。
1922年頃より赤字だった台湾エスペラント学会は会員が減少し、学会費納入者が4%(1923年)、上林熊雄其の他日本人ら特別会員からの資金援助もなくなった。ら有力なエスペランティストは政治活動に忙しく、Verda Ombro も1924年には休刊となった。機関誌が休刊となるとエスペランティスト同士を繋いでいた情報の糸も切れ、地方は孤立し、衰退してしまったと思われる。


台湾人によるエスペラント運動は学会と共に崩壊状態となる。日本人は1925年に台北エスペラント学会を組織しJEIの支部を名乗った。台北エスペラント学会のメンバーは台湾総督府関連の官吏、教師、医師、銀行員など植民地日本社会のエリートたちであった。エスペラントは居心地の良い人畜無害なサロンであったであろう。
連温卿も1926年に Verda Ombro を再刊し運動を再興しようと試みるも、文化協会の分裂、に対する台湾共産党の苛烈な批判、日本での山川イズムの敗北など、エスペラントどころではない境遇であったと推察される。

Ⅳ 満州事変と皇民化政策

1931年満州事変を境に、日本は台湾を単なる収奪対象の植民地から「動かざる航空母艦」として重視するようになった。同時に台湾人・高地民族を軍夫として徴用し労務に就かせ、或いは兵隊として中国侵略に直接参加させた。台湾人の「同化」政策は「皇民化」政策に取って代わった。
日本や中国でエスペラント運動がマルクス主義とともに流行していたとき、台湾でも流行があった。1930年かららはエスペラントの研究会や講習会を開催し、1931年には台湾エスペラント学会と台北エスペラント学会等日本人エスペラント団体が合同で第一回台湾エスペラント大会が開催された。この大会では、趣味的・社交的エスペラントとプロレタリア解放を目指すエスペラントの潮流との食い違い・敵対が明らかになり、運動の一本化は不成立となった。また大会参加者121人のうち台湾人は18人(17人?)だけだった。
しかし、この大会後、台湾の労働者・農民の間でマルクス主義等と結びついて、エスペラントを学ぼうというものが増えた。台湾プロレタリアエスペラント運動の主体が何であったかは不明であるが、滅亡寸前の台湾共産党の影響が推測される。
1932年に開催された第二回台湾エスペラント大会は、その参加者135人中62人が台湾人で、そのうち60人が「革命的」な人々であった。警官と憲兵とが監視する中で開会されたこの大会のイニシアティブは台湾プロレタリア・エスペラント運動の人々であった。

台湾人による台湾エスペラント運動の終焉

松田はるひ氏による台湾エスペラントの historio は前述で終わっている(と思う)。
在台湾日本人によるエスペラント運動を「台湾エスペラント運動」と呼んで良いのだろうか。それが台湾の日本人以外の人々への普及を目指していたなら、そう呼んで良いのだろうか。ここでは、台湾人による台湾人のためのエスペラント普及・活用でないものは「台湾エスペラント運動」とは呼びたくないので、呼ばないことにする。


それでは「台湾エスペラント運動」の終焉はいつ・どこだと言えるのだろうか。
呂 美親氏の「日本統治下における台湾エスペラント運動研究」(恥ずかしながら全部は読んでいない)には、「満州事変が勃発したため、エスペラント運動はここでピリオドが打たれた」とあり、その典拠として松田はるひ氏のこの論文の参照を求めている。しかし、松田氏の記述は「(満州事変をはさんだ)二回にわたる台湾エスペラント大会は、運動の灯が消える直前のまぶしい輝きにも似たものであった」としか書いておらず、何をもって「ピリオド」としているのか不明である(読み落としあるか?)。
呂氏は満州事変以降の台湾におけるエスペラント運動について次のようにまとめている。

1932年5月に台湾エスペラン学会は、創立20周年記念として『Eelmentaj Lecionoj de Espranto』(初級エスペラント教科書)を発行した。満州事変以降の運動は、小規模でありながらも何らかの形で進められていたとわかる(正運動主体は不明)。1940 年代以降の台湾エスペラント運動
も実際の活動はほぼなかった。もちろん戦争の影響もあるが、台湾では皇民化運動による国語教育の急進が、エスペラント運動を阻む大きな原因となったであろう。

http://hdl.handle.net/10086/27814

植民地台湾では、皇民化運動のなかで政治上、文化上でさまざまな動員がなされたが、『台湾日日新報』に掲載されたエスペラント関連の記事は、1930年代後半からほぼなくなった。もちろん、例えば台湾エスペラント学会が高砂食堂で開催したエスペラント誕生50周年記念イベント『エスペラントを語る夕』や、台北エスペラント会が久しぶりに例会を行ったことなどはまだ掲載されているが、台湾エスペラント会であれ、台北エスペラント会であれ、1940年代以降には実際の活動は行われなくなった。

松田はるひ連載を読んで

エスペラントの学習・普及が、日本語の強制(学ぶことだけではなく、社会制度が日本語で運用される、現地語が通用しない、果ては禁止される)に対する反発から反抗・抵抗へと発展する限りにおいては、エスペラントは植民地解放になにがしかのプラスの空気をもたらしたであろう。また、植民地を合理化しない・批判する言説の輸入のパイプ・媒体として機能する限り、それは「革命的」であったでうろう。しかし、それは被抑圧言語の復権・解放でもなければ、植民地解放でもないのであるから、所詮土着の言語以外を学ぶ余裕のあるエリートのおもちゃの域を脱することは、もともと難しいのではなかろうか。


また、抜きん出た諸個人によってエスペラント運動が担われているかぎり、その諸個人の運動外への退出はそのまま運動の終焉となる。運動は根無し草の寄せ集めでは継続できないものである。運動がその理念を拡げ、深く根を張るためには「組織」が必要であり、「組織」が生きて活動するには「機関紙誌」の発行が必要であり、構成員や影響を与えたい人々に読まれる必要がある。運動論のイロハであろう。


とすれば、余談だが、運動組織が掲げる運動課題が、楽しいレクリェーション行事などではなく、根深い社会問題(構造的で強者の利権を維持している)であり、その解決が困難であればあるほど、組織はその機関紙誌をよく読んでもらうことが必須になってくるだろう。


ところで日本の現在のエスペラント組織も会員の減少と高齢化とに見舞われている。エスペラント組織が失われるなら、もともと日本社会に必須でもなんでもないエスペラント運動などパラパラと学習者が残るのみで、一瞬で消滅するのではなかろうか。
かつての台湾エスペラント運動や世界のプロエス運動は、エスペラントが闘いや通信の道具であり、武器であるという点で、運動の発生には一定の根拠があった。
現代日本においてエスペラント運動は存立の根拠を持っているだろうか。その根拠はエスペラント運動を担う人々自身によって常に創出され・確かなものにされなければ、いわば「ニュー・ラテン語」のように趣味の段ボール箱の中でホコリをかぶって忘れ去られてしまうのではなかろうか。

朝比賀昇(あさひがのぼる) sur la Revuo Orienta

朝比賀昇(小林司)の記事は読みごたえがありそうだ。

日本エスペラント

1970年01月 p19= 日本エスペラント学会50年のあゆみ (1) … 朝比賀昇 p19-25
1970年03月 p20= 日本エスペラント学会50年のあゆみ (2) … 朝比賀昇 p20---25
1970年04月 p18= 日本エスペラント学会50年のあゆみ (3) … 朝比賀昇 p18---22
1970年05月 p23= 日本エスペラント学会50年のあゆみ (4) … 朝比賀昇 p23---27
1970年06月 p24= 日本エスペラント学会50年のあゆみ (5) … 朝比賀昇 p24---28
1970年07月 p23= 日本エスペラント学会50年のあゆみ (6) … 朝比賀昇 p23---26
1970年08月 p14= 日本エスペラント学会50年のあゆみ (7) … 朝比賀昇 p14---17
1970年10月 p16= 日本エスペラント学会50年のあゆみ (8 補遺) … 朝比賀昇 p16---22
1971年06月 p22= 斎藤秀一の位置づけ … 朝比賀昇 p22---26
1974年04月 p38= (豆歴史) 日本におけるエスペラントのあyみ … 朝比賀昇 p38
1974年10月 p38= 書評「反体制エスペラント運動史」 … 朝比賀昇 p38
1976年02月 p20= 小坂賞のひとびと(1) … 朝比賀昇 p20-21
1976年03月 p24= 小坂賞のひとびと(2) … 朝比賀昇 p24---26
1976年04月 p27= 小坂賞のひとびと(3) … 朝比賀昇 p27---29
1976年05月 p22= 小坂賞のひとびと(4) … 朝比賀昇 p22---24
1980年11月 p23= E運動に対する太平洋戦争中の弾圧 … 朝比賀昇 p23---27
1982年06月 p04= 特集・戦時下の日本エスペラント運動 … 朝比賀昇 p4
1995年08月 p11= 日本のエスペラント運動の戦後50年 … 朝比賀昇(小林司) p11---15

エスペラント100年

1977年07月 p04= エスペラント90年のあゆみが示すもの … 朝比賀昇 p4---6
1987年04月 p04= エスペラントにとっての100年 (1) ザメンホフ … 朝比賀昇 p4---6
1987年05月 p04= エスペラントにとっての100年 (2) ロマン・ロラン … 朝比賀昇 p4---9
1987年06月 p06= エスペラントにとっての100年 (3) ランティ … 朝比賀昇 p6---8
1987年07月 p25= エスペラントにとっての100年 (4) プロエス運動の人びと … 朝比賀昇 p25---27
1987年08月 p07= エスペラントにとっての100年 (5) エスペラント報告同盟の人びと … 朝比賀昇 p7---9
1987年09月 p21= エスペラントにとっての100年 (6) 斎藤秀一と長谷川テル … 朝比賀昇 p21---23
1987年10月 p22= エスペラントにとっての100年 (7) 右翼の北一輝と徴兵拒否者石賀修 … 朝比賀昇 p22---24
1987年11月 p07= エスペラントにとっての100年: (8) 戦後の大衆への影響 (完) … 朝比賀昇 p7---9

ザメンホフ

1972年12月 p22= ユダヤ人差別と闘ったザメンホフ (1.序説) … 朝比賀昇 p22---32
1975年01月 p18= ユダヤ人差別と闘ったザメンホフ(2) (IIシオニズムの活動家として (1)) … 朝比賀昇 p18---21
1975年02月 p19= ユダヤ人差別と闘ったザメンホフ(3) (IIシオニズムの活動家として (2)) … 朝比賀昇 p19---24
1975年03月 p21= ユダヤ人差別と闘ったザメンホフ(4) (Ⅲ.著作の分析から (1)) … 朝比賀昇 p21---24
1975年04月 p18= ユダヤ人差別と闘ったザメンホフ(5) (Ⅲ.著作の分析から (2)) … 朝比賀昇 p18---22
1975年10月 p16= ひろば: 「朝比賀昇論文への質問」 … 清水孝一、(回答)朝比賀昇 p16
1990年09月 p36= 東欧革命までの100年史におけるザメンホフの思想的位置 … 朝比賀昇 p36---38
1973年06月 p11= ≪La Esperantisto≫ はなぜ検閲にとがめられたのか … 朝比賀昇 p11---17

エスペラント

1996年04月 p24= 謎解きエスぺラント史(1):Homaranismoへの改称の謎(1) … 朝比賀昇 p24---26
1996年05月 p21= 謎解きエスぺラント史(2):Homaranismoへの改称の謎(2) … 朝比賀昇 p21---23
1996年06月 p22= 謎解きエスぺラント史(3):Homaranismoへの改称の謎(3) … 朝比賀昇 p22---24
1996年07月 p34= 謎解きエスぺラント史(4):Homaranismoへの改称の謎(4) … 朝比賀昇 p34-35
1996年08月 p25= 謎解きエスぺラント史(5):Homaranismoへの改称の謎(5) … 朝比賀昇 p25-26
1996年09月 p28= 謎解きエスぺラント史(6):Homaranismoへの改称の謎(6) … 朝比賀昇 p28-29
1998年07月 p06= ホマラニスモとは? … 朝比賀昇 p6-7

訃報・人物伝

1969年09月 p06= 緑に輝く巨星墜つ (小坂狷二) … 朝比賀昇 p6---9
1982年10月 p11= 追悼:故江上不二夫JEI会長のE運動への貢献 … 朝比賀昇 p11
1986年09月 p28= 追悼:プロレタリアエスペラント運動の闘士、岡一太さんを悼む … 朝比賀昇 p28-29
1989年01月 p12= 組織者としての小坂狷二 … 朝比賀昇 p12---14
1994年12月 p21= 追悼:イシガオサムさんを悼む … 朝比賀昇 p21
2004年06月 p121= 組織者としての小坂狷二 … 朝比賀昇 p121---123

他国の運動

1970年01月 p10= Esperanto (世界のエスペラント誌めぐり)(1) … 朝比賀昇 p10-11
1970年02月 p12= Heroldo de Esperanto (世界のエスペラント誌めぐり)(2) … 朝比賀昇 p12-13
1970年03月 p16= Sennaciulo (世界のエスペラント誌めぐり)(3) … 朝比賀昇 p16-17
1970年04月 p13= The British Esperantisto (世界のエスペラント誌めぐり)(4) … 朝比賀昇 p13-14
1970年05月 p13= la Praktiko (世界のエスペラント誌めぐり)(5) … 朝比賀昇 p13-14
1970年06月 p14= Nuntempa Bulgario (世界のエスペラント誌めぐり)(6) … 朝比賀昇 p14-15
1970年07月 p21= Norda Prismo (世界のエスペラント誌めぐり)(7) … 朝比賀昇 p21-22
1970年09月 p20= El Popola Ĉinio (世界のエスペラント誌めぐり)(8) … 朝比賀昇 p20-21
1970年10月 p23= La Suda Stelo Esperanto-Gazeto (世界のエスペラント誌めぐり)(9) … 朝比賀昇 p23-24
1971年02月 p23= Hungara Vivo (世界のエスペラント誌めぐり)(11) … 朝比賀昇 p23-24
1971年12月 p24= PACO(世界エスペラント雑誌めぐり 12) … 朝比賀昇 p24-25

書評など

1972年05月 p27= 書評《蘭学事始》 … 朝比賀昇 p27
1973年07月 p37= 書評: La Dangela Lingvo … 朝比賀昇 p37-38
1978年06月 p22= 書評「La Kaŝita Vivo de Zamenhof」(4) 『ユダヤ人問題を鋭く追求』 … 朝比賀昇 p22-23
1983年11月 p24= 私の2さつ (5) … 朝比賀昇 p24
1984年04月 p13= 書評: 岡山のエスペラント … 朝比賀昇、大島義夫 p13-14
1990年05月 p43= 書評:Trezoro : La Esperanta novelarto 1887-1986 (red. R. Rossetti kaj H. Vatre) … 朝比賀昇 p43-44
1990年12月 p22= 今年読んだ本 朝比賀昇 p22
1985年05月 p06= エスペラントから日本語に訳された本 (1) … 朝比賀昇 p6-7
1985年06月 p12= エスペラントから日本語に訳された本 (2) … 朝比賀昇 p12-13
1985年07月 p20= エスペラントから日本語に訳された本 (3) … 朝比賀昇 p20-21
1985年08月 p20= エスペラントから日本語に訳された本 (4) … 朝比賀昇 p20-21
1985年10月 p24= エスペラントから日本語に訳された本 (5) … 朝比賀昇 p24-25
1985年11月 p16= エスペラントから日本語に訳された本 (6 完) … 朝比賀昇 p16---18

その他

1953年03月 p28= Nia salono : 山内由英(岐阜療養所)、朝比賀昇 p28
1971年08月 p15= エスペラント学力検定試験(エスペラントメモ) … 朝比賀昇 p15---17
1971年10月 p19= ひろば: 「学力検定試験」追加 … 朝比賀昇 p19
1972年01月 p26= 1971年秋の研究発表会 … 朝比賀昇 p26
1973年12月 p35= 1973年の日本エスペラントウ運動をふりかえって … 朝比賀昇 p35---37
1974年12月 p34= 1974年の日本エスペラント運動をふりかえって … 朝比賀昇 p34---36
1975年12月 p11= ザメンホフゆかりの地を訪ねて … 朝比賀昇 p11---14
1977年04月 p03= アンニーを探して … 朝比賀昇 p3
1977年08月 p03= 祭の時代に終止符を … 朝比賀昇 p3
1977年12月 p03= ヴィクトリア朝からの脱却 … 朝比賀昇 p3
1998年07月 p09= 世界大会より日本大会の回数が多いのは? … 朝比賀昇 p9-10

エスペラントと戦争協力、その2

La Revuo Orienta は終戦前後に休刊を余儀なくされるのだが…

休刊前のRO誌が戦争一色かというと、わりとそういう雰囲気でもないが、大東亜共同宣言を訳出したり、「撃ちして止まむ!」とか海軍大臣の戦況報告演説をトップ記事に訳してみたり、翼賛的な記事もちらほら目につく。(かどや氏の論文では1938年8月号の理事長声明「現時局とエスペランチスト」を紹介している。これは日本エスペラント協会の会員で一定の手続きを取れば、いつでもネットでも読めるし、会員にはすでに配布されている非売品の『100年史』にも掲載されている。)
また1940年10月号では「新体制への出発、IEL離脱の意義」で三宅史平は、IEL(Internacia Esperanto-Ligo)から日本エスペラント学会は離脱するが、これからも各国のエスペラント団体との友好関係を持っていくけど、それは「八紘一宇の精神」によるものである、と書いている。(よく読めばこの声明がひどいので、別に記事を作った。「「八紘一宇」精神下のエスペラント」)

1944年3月号 休刊のあいさつ

 国を挙げての決戦態勢に応える緊急措置として、この機関誌を休刊することにいたしました。…枢軸陣の決定的勝利の日の再刊を期しながら、会員、読者諸氏としばらくお別れするわけであります。…
 (機関誌発行を続けてきたのは)…また一面、国際的接触をつねに意識しての、国威発揚の一端にも役立ちたいとの副次的効果へのねらいでもありました。
 …
 その本来の使命の達成につきましては、(日本エスペランチスト団の水準を高めて)これに対する敬服を通して、各国エスペランチストの文化日本に対する認識を深めさせ、日本人への信頼、親愛の念を高めさせたのであります。…(世界エスペラント大会は満州国にもメッセージを送り、その建国を正当視したり)…支那事変に際しては、中国側エスペランチストのやっきの宣伝にもかかわらず、各国エスペランチストは…日本に対する善意を失うことがありませんでした。…

 戦争中も機関誌を発行しつづけるのは戦争の後、各国のエスペランチストに与えるであろう印象を考えに入れていたからである。つまり「大東亜戦争」の勝利の日にエスペラントの雑誌を出し続けていたということが世界に対する文化的勝利を決定的にすると思って、雑誌を発行し続けてきたのである。、というようなことが続きに書いてある。


1946年3月の戦後初の日本エスペラント大会の大会宣言

敗戦を迎え、エスペランチストも戦死したり被災したりあったものと見受けられるが、敗戦を機にしての反省などは何もない。
La Revuo Orienta 1946年3月号

 恒久的世界平和の精神的基礎が諸民族間の理解の上に育成せられる連帯感情にあるに鑑み、
 国際的諸関係における共通語の採用はかかる相互的理解をもたらすに必須なる基本条件にして、各民族の自由と尊厳とに対する相互の尊敬を原則として創造されたる国際補助語エスペラントはこの意味において人類最高の理想を具現するに最も有効かつ適切なる言語的手段であるとの確信のもとに、
 第32回日本エスペラント大会は、エスペラントのより広範なる利用が人類福祉のために促進せらるべく、全日本のエスペランチストが上述の目的達成のために更に積極的なる活動に邁進すべきものなることを宣言する。


第32回日本エスペラント大会

戦後初のRO再刊号に寄せられた意見も、戦争については地震か台風、水害をやり過ごした後のような意見ばかりが掲載されている。正直、国が国民を巻き込んで行った戦争なぞ、身内や自分に災難が降りかからなければ、その程度のものだったのかもしれない。

医療・看護と戦争

いろいろ書いたついでに、ネットで拾ったものをメモしておく。
後日追加するかも。


たとえば、下の論文は、ただ調べて記録するというのが「目的」の文章なのかもしれないけれど…。日赤が「中立」の旗のもとに核時代に何をしているのか、教えてくださると嬉しいが。

第二次世界大戦における日本赤十字社の衛生支援

…過去,この大戦における日赤の衛生支援に関する研究は,法令や規則,政府や軍との関係を解明するものが大部分であった3–8).
…救護看護婦の記した体験記がいくつかあるが,彼女らの悲惨な体験の背景にあった日常の活動とそれを支えた制度を知ることも,戦争と看護を理解するうえで重要と考えた.


...赤十字の人道博愛と報国恤兵の 2 つを柱とする教育が行われていたことは舟越が指摘する通りである 59).そして彼女らの激務を支え続けたのが看護婦の精神教育の中心ともいえる救護員十訓であった60).


...この戦争で日本は無謀な戦いをし,多くの犠牲者を出した.日赤は,衛生支援に全面的に協力し,看護婦をつぎつぎと速成養成し,繰り上げ卒業を行って動員した.看護婦自身も個々の事情があっても,日赤の看護婦であることを誇りに思い,召集に応じた.
...日赤が戦時救護を主たる目的とした組織であった以上,救護員を派遣して目的を果たそうとするのは当然であったといえる.また戦争が必然的に人命の損失をともなうならば,もとより満足できる衛生支援などないのかもしれない.

http://jsmh.umin.jp/journal/61-4/61-4_gencho_1.pdf

慰安婦問題とか

次の文が気になっていたが、ROのバックナンバーを閲覧できるようになって、どういうものであったか読むことができる。

 「従軍慰安婦は、韓国の親たちがお金のためにその娘を売ったもので、売春婦にすぎない」といった内容の醜悪なエスペラント文が日本エスペラント学会の月刊機関誌「エスペラント」に掲載されたのは、1998年8月であった。もちろんエスペランティストにも言論の自由があるから何を書いてもよいのだが、韓国の友人のメールではじめてこの記事について知ったとき、私は恥ずかしいと思った。日本の代表的なエスペラント雑誌にどんな記事が掲載されているのか知らないままに、外国人と交流するわけにはいかないと思った。

https://blog.goo.ne.jp/esperakira/e/a056c98bdd220c170c3529044371b4b7

この「"Konsolulinoj" aux prostitutinoj en euxfemismo」(1998.8)という記事に対して、どのような反応があったかも気になっていた。

  • Cxu atencinto riprocxu atenciton? (1998.10)
  • Reprenu viajn demandojn, mia kara junulo (1998.11)
  • Histori-domo de japna-armeaj 'seks-sklavinoj' (1998.11)

反応はここらへんで終わっているように思える。(投稿はどれも知らない単語がやや多くて僕には読みづらい)



慰安婦は売春婦だとか、原爆は必要だとか、何でも書こうと思えばかけるし、書いたものに応じて人間関係も広がったり狭まったりするだろう。
大事なのは科学や学問に照らして反省して訂正できるかどうか、他の人たちの人格を尊重しているかどうか、などであろうか。いずれにしても書き手の今日的人格が問われることではある。

伊東三郎という人

伊東三郎という人がどういう人だったのか、もうすこし詳しく知りたくて。
RO誌に伊東が書いた記事を容易に検索できるようになったので、下記にメモしておく。
伊東三郎は、磯崎巌、伊井迂(「誰か」という意味らしい)、I.U.の名で掲載されているらしい。

磯崎巌

  • 1925年01月 p08= # Al birdeto forfluginta 去り小鳥(原作詩) … 磯崎巌 p8
  • 1926年04月 p04= # 猿蟹合戦 … 磯崎巌 p4-5-6
  • 1936年06月 p97= 僕の思ひ出、何が僕をエスペランチストにしたか … 磯崎巌 p97---104
  • 1937年07月 p09= 図書館とエスペラント、我々の重要なる任務 … 磯崎巌 p9---12
  • 1938年05月 p44= 個人消息:磯崎巌、西村祭喜(Z万年筆発明者)、米田徳次郎 p44
  • 1939年04月 p18= $ 支那詩抄 … 磯崎巌 p18-19
  • 1939年06月 p15= # 漢詩:敕勒歌 … 訳・磯崎巌 p15
  • 1945年11月 p06= 芸術・理論・実践 … 磯崎巌 p6-7 ※
  • 1956年06月 p18= 先輩はなぜ・どうして学んだか 協会会員現存者調査 ※※


※これを読んで意外で、ややがっかりしたのは、この号が戦後再発行を始めたRevuo Orientaで最初のまとまった読むことのできる文章の一つであり、伊東が戦後初めてRO誌に載せた文章だからである。戦争のことは何一つ触れていない。

 エスペラント芸術の問題、エスペラント理論の問題、エスペラント実践の問題…私自身も客観的に回顧しますと、研究、普及、実用のそれぞれに関して努力を払ってきましたが、主観的に、私の内の注意の焦点は前記芸術と理論と実践との課題になります。…
 ともかくこうした私の特殊傾向をそれと自覚して一層その方向に積極的に勉強することが私の努めではないでしょうか。
 一別以来、世の中も幾回転し、また我々の生活体験も決して単純僅少なものではなかったのですが、それで我々のエスペラントに関する考えや方針もまた大いに変わるべきでしょうか。否々、変わった点はただ成熟し深められたということだけで、根本的には当初のままの方向を一層反省自覚的にたどること以外に生き方はないのではありますまいか。…

※※磯崎巌、伊東三郎伊井迂、I.U.として。
その他、山鹿泰治、比嘉春潮、(藤沢親雄)、(秋田雨雀)、長谷川理衛、井上万寿蔵等

Iŭao Isozaki

  • 1925年08月 p07= # Ŝi fartu bone … Iŭao Isozaki p7
  • 1925年08月 p07= # El ISE MONOGATARI … Iŭao Isozaki p7
  • 1926年04月 p04= # Krabo kaj simio (infana rakonto japana) … trad. Isozaki Iŭao p4-5-6
  • 1926年10月 p05= # Homa Rano (Infana epopeo) … Iŭao Isozaki p5-6-7
  • 1937年08月 p07= エスペラントと実業との結合について … Iŭao Isozaki p7---13
  • 1939年04月 p18= # El antikvaj ĉinaj poemoj … I. Isozaki p18-19
  • 1939年06月 p15= # Kanto de Ĉihlej … Hu-Lŭoĉin, trad. ISOZAKI-Iwao p15
  • 2019年11月 p06= # Ŝi fartu bone … Iŭao ISOZAKI p6

伊井迂

  • 1932年12月 p20= 私の意図(Kion mi celas) … 伊井迂 p20-21
  • 1937年10月 p28= # Bela, Bona, Uzo, Muzo (実業分科会を祝して漫歌一篇) … 伊井迂老人 p28
  • 1937年11月 p23= # Jubilea Readmono, al la 25a kongreso … I. U. (伊井迂) p23
  • 1937年12月 p04= エス発展の為、調査事業計画化の必要に就いて … 伊井迂 p4---6
  • 1939年10月 p37= 英語数育再検討 … 伊井迂 p37---39
  • 1965年06月 p18= 小坂狷二先生の喜寿をお祝いしよう … 伊井迂 p18

I.U.

  • 1968年01月 p11= Al k-do Jui … I.U. p11
  • 1982年01月 p10= I.U.の詩 … 平野雅曠 p10-11
  • 2004年06月 p101= # Al kamarado … JUI : I.U. p101

伊東三郎

伊東三郎について