エスペラントと戦争協力、その2

La Revuo Orienta は終戦前後に休刊を余儀なくされるのだが…

休刊前のRO誌が戦争一色かというと、わりとそういう雰囲気でもないが、大東亜共同宣言を訳出したり、「撃ちして止まむ!」とか海軍大臣の戦況報告演説をトップ記事に訳してみたり、翼賛的な記事もちらほら目につく。(かどや氏の論文では1938年8月号の理事長声明「現時局とエスペランチスト」を紹介している。これは日本エスペラント協会の会員で一定の手続きを取れば、いつでもネットでも読めるし、会員にはすでに配布されている非売品の『100年史』にも掲載されている。)
また1940年10月号では「新体制への出発、IEL離脱の意義」で三宅史平は、IEL(Internacia Esperanto-Ligo)から日本エスペラント学会は離脱するが、これからも各国のエスペラント団体との友好関係を持っていくけど、それは「八紘一宇の精神」によるものである、と書いている。(よく読めばこの声明がひどいので、別に記事を作った。「「八紘一宇」精神下のエスペラント」)

1944年3月号 休刊のあいさつ

 国を挙げての決戦態勢に応える緊急措置として、この機関誌を休刊することにいたしました。…枢軸陣の決定的勝利の日の再刊を期しながら、会員、読者諸氏としばらくお別れするわけであります。…
 (機関誌発行を続けてきたのは)…また一面、国際的接触をつねに意識しての、国威発揚の一端にも役立ちたいとの副次的効果へのねらいでもありました。
 …
 その本来の使命の達成につきましては、(日本エスペランチスト団の水準を高めて)これに対する敬服を通して、各国エスペランチストの文化日本に対する認識を深めさせ、日本人への信頼、親愛の念を高めさせたのであります。…(世界エスペラント大会は満州国にもメッセージを送り、その建国を正当視したり)…支那事変に際しては、中国側エスペランチストのやっきの宣伝にもかかわらず、各国エスペランチストは…日本に対する善意を失うことがありませんでした。…

 戦争中も機関誌を発行しつづけるのは戦争の後、各国のエスペランチストに与えるであろう印象を考えに入れていたからである。つまり「大東亜戦争」の勝利の日にエスペラントの雑誌を出し続けていたということが世界に対する文化的勝利を決定的にすると思って、雑誌を発行し続けてきたのである。、というようなことが続きに書いてある。


1946年3月の戦後初の日本エスペラント大会の大会宣言

敗戦を迎え、エスペランチストも戦死したり被災したりあったものと見受けられるが、敗戦を機にしての反省などは何もない。
La Revuo Orienta 1946年3月号

 恒久的世界平和の精神的基礎が諸民族間の理解の上に育成せられる連帯感情にあるに鑑み、
 国際的諸関係における共通語の採用はかかる相互的理解をもたらすに必須なる基本条件にして、各民族の自由と尊厳とに対する相互の尊敬を原則として創造されたる国際補助語エスペラントはこの意味において人類最高の理想を具現するに最も有効かつ適切なる言語的手段であるとの確信のもとに、
 第32回日本エスペラント大会は、エスペラントのより広範なる利用が人類福祉のために促進せらるべく、全日本のエスペランチストが上述の目的達成のために更に積極的なる活動に邁進すべきものなることを宣言する。


第32回日本エスペラント大会

戦後初のRO再刊号に寄せられた意見も、戦争については地震か台風、水害をやり過ごした後のような意見ばかりが掲載されている。正直、国が国民を巻き込んで行った戦争なぞ、身内や自分に災難が降りかからなければ、その程度のものだったのかもしれない。