英語の方がもちろん実用的。英語のほうがもちろん多数派。

Heidiさんというお医者さんで学者さんのブログ「My Own Opinion (私の視点)」の記事、「地球語: エスペラント語か英語か?」と「どんな言語も手話と同様「中立」!」を拝読。特に強く反論すべきことや強く反論したいことはない。少し訂正したいことがあるだけだ。数字のことは確かめるのが面倒くさいのでそのまま信じるとして、概ね・多くの「賢い」人が似たようなことを英語について考えているのだろうなと思う。


一部引用して紹介。

最近、ある高齢の平和学者から、「エスペラント語」の普及を勧めるメールを受け取った。……現在のところ、世界中に約200万人が、この言葉〔エスペラント(引用者)〕を「平和と基本的人権」を守るために使用しているそうだ。私にはこの学者の趣味的な「ユートピア運動」を妨害する意図は全くないが、エスペラント語は実用性に乏しいので、その勧めに参同するのをお断わりした。
私は海外で35年以上学術研究に従事してきた人間で、「英語」を日常語として、朝から晩まで使っている。世界中で、英語を日常会話に使っている人々の数は、国境を越えて、約18億人(国語として7億人、方言の多いインドでは、11億人が英語を「共通語」として)に達している。世界総人口(60億人)の約3割を占めていており、世界で最も普及している言語である。従って、この英語をさらに普及して、「地球語」として世界中の誰もが英語を話せるようになったら「理想的」であると、固く信じている。

http://charlie19420.blogspot.com/2008/06/blog-post_19.html

エスペラント愛好者(世界にわずか200万人、人口3千人に一人の割合)は、エスパラント語の「中立性」を強調したがるが、手話が中立であるのと同様に、いかなる言語も中立である。
……
「英語」という言語と、英米の「帝国主義」とは、はっきり切り離して考えるべきだ。坊主が嫌いだから、袈裟まで憎むのは、女(あるいは男)の「ヒステリー」以外の何物でもない!

http://charlie19420.blogspot.com/2008/06/blog-post_9251.html


エスペラントをこの先生に勧めるのに、どういう情報を・どのように提供してしまったのだろうか。
とりあえず、エスペラントを学んでみようとする人は、次のことに注意するべきだろう。

  • エスペラント愛好者の誰もがエスペラントを「平和と基本的人権を守るために使用」しているわけではないはずである。
  • エスペラントを使用するのは「趣味的」かもしれないが、「平和と基本的人権を守る」活動を「趣味的」「ユートピア運動」とは呼ばないほうが良いだろう。もしその人と友好な人間関係を保ちたいならば。「趣味的エスペラント」と「(平和・人権擁護の)運動」とを区別して、お話してあげるべきだろう。
  • エスペラント愛好者の誰もがエス「パ」ラント語の「中立性」を強調したがる、というわけではないはずである。ただし、「中立性を強調したがる」にはどんな根拠があるのか、具体的に知っておくのは、悪いことではないだろう。
  • 「ヒステリー」だとか「分裂」だとか「パラノイア」だとか「自己中心的境界例」だとか「自閉症」など、本人や周りの人が苦しんだり困ったりしている疾患名や診断名・症状名を、何か別の事案に使ったりすると、こういう読後感になるという一例はこれ。

まあ、エスペラントを好んで学ぶ人が「戦争と人権蹂躙」のためにそれを用いるとは考えにくいが、だからといってエスペラント話者が必ずそれを「平和と基本的人権を守るために使う」とは限るまい。また別に言えば「平和と基本的人権を守る」ことは国連的合意では、積極的なそれではないにせよ人類一人ひとりの義務であって、まさに言語の如何にはかかわらぬことである。
どちらかというと、エスペラントよりもまさに「平和と基本的人権」が人間にとって大切である。ただ「平和と基本的人権」を守るやり方は、その目的を損ねない限りで多様であって、そこに「趣味的」で「非実用的」なエスペラント普及をやりたい人があっても許容されている。
また、世界中の人が英語を話せるようになるということとエスペラントを話せるようになるということとは、別に矛盾しはしない。
注意したいのは、非実用的だということは、それ以外の何かを直接には意味しないということである。多様な国際的な人間関係の中に身をおくとすれば、1億人以上の話者を持つ日本語よりも200万人しか使用者がいないエスペラントのほうが実用的かもしれない。その限りにおいては日本語や韓国語やベトナム語エスペラントより非実用的である可能性が高い。



人それぞれの「理想」は自由で良いのだが、人の間違った認識内容について、その認識の根源などには言及せず、いきなり「ヒステリー」という診断をつけて放置するあたりは、少なくとも精神科の臨床の先生ではないのだなということがうかがい知れる。


それにしても、繰り返しだが、どういうふうにエスペラントを勧めたのでしょうね。この先生が「参同」したくないように。

再び、言語の中立について(ぼんやりした疑問)

付記:
この先生は、どの言語もそれ自体は「中立」である、という。
人間の営みに付随して、「中立」に振舞う社会的なものといえば、貨幣も挙げられる。いま、「世界的な金融危機」ということになっているらしいのだが、そのことはここではひとまず捨象しておこう。
世界の経済でドルが支配的であるから、国際的な取引で決済通貨としてドルを使うという人が少なくないのであろうが、そのことが非ドル貨幣の国家においてどのような意義があるのか、恥ずかしながらあまり知らない。ただ、ドルを一定程度所有していなければ国際的な取引に参加できないのだから、ドルを買わねばならないだろうし、ドルをたくさん持っている国や人から買うことになる。ここでその非ドル貨幣国の立場は他のドル持ち国に対して対等平等というより「弱い」場合が大いにありうる、ということは想像できるのではなかろうか。


内容は異なるが、言語についても似ているのであって、何年も学校で教えられているからといって、英語ができるかというとそうではない。英語が日常語や母語である人とそうでない人との差は、埋めがたいものがあろう。
そうなると、英語自体は「中立」ではあっても、現実には英語が母語の人について「有利」にしか現象しえないし、一国の内部では、英語教育に厚い社会階層に、ヨリ「有利」に現象することになる。
もちろん似たようなことはエスペラントでも生じるのであるが、使用者が少ないぶん英語よりはマシかもしれない。(だからエスペラントが最適とは言おうというのではない。)


いずれにしても、言語や貨幣が「それ自体は中立なんだ」と叫んでみるのは、それが英語だろうとエスペラントだろうと現実にはあまり意味がない。なぜかというと、言語や貨幣は「中立」には存在していないからである。だから、英語とエスペラントとの間に「中立性」をめぐる比較は成立するし、その限りにおいてエスペラントのほうがより「中立」であるとは言うことはできるだろう。

中立とは何か

「中立」かそうでないかというのは、結局公正なのか不公正なのか、公平なのか不公平なのかということになる。またそれは今の社会では資力や財力、権力ということの比較や分配の問題になってくる。
はじめから、所有している社会的諸力が異なる人々や集団同士の間で、「中立」に立ち振る舞う流動物・動産・不動産というものはあるのだろうか。
そうした相互に差異のある集団に対して「中立」に働くものは、何か。抽象的な法律のようなものだろうかなぁ?