セクハラおやじによるセクハラやじ / Seksmolestaj mokkrioj de sekmoletuloj

6月18日の東京都議会本会議で、みんなの党塩村文夏(あやか)議員の質問中に、「早く結婚しろよ」「結婚した方が良いんじゃないのか」「子どもを産めないのか」「子どももいないのに」などと自民党席周辺からヤジが飛んだ。
18an de Junio en la asembleo de TOKIO dum demand-parolado de juna virina deputito, ŜIOMURA-Ayaka, iuj regpartiaj deputitoj moke kriis: "Edziniĝu tuj!"; "Ĉu ne estas bene edzniĝi?"; "Ĉu via korpo ne kapablas naski?"; "Kvankam vi ne havas idon (, vi parolas pri vartado)!"
地方自治法に基づき議長あてに提出した「処分要求書」は、議長はこれを不受理とし、注意も何もしなかった。この機能不全の議長は吉野利明(自民党)である。
そうしてマスコミも騒いで5日も後に自民党鈴木章浩が名乗り出るも、ヤジの一部は自分ではないとし、「正直に思ったことを言っただけ」「心痛を与えたことについて、ごめんなさい」というような無反省の「謝罪」と称する場を設けただけであった。

 セクハラおやじによるセクハラやじの問題点は、

  • 「個人を」
  • 「傷つけた・心痛を与えた」
  • 「女性に対して」
  • 「配慮を欠いていた」、

だから「謝る」とか、本当は「結婚すればいいと思った」正直で素直な気持ちからの発言だったとかではない。
 結婚・出産(能力)は、発言に当たって、「配慮されるべき」「女性」の特質ではない。言い換えれば、「結婚したほうがいいんじゃないのか」と「言う」のは「配慮が欠けている」からではなく、女性観・人間観がゆがんでいるからである。そういう発言や発想は普遍的だがマナーとしての「配慮」によってセーブされるというような性格のものではなかろう。
 「結婚した方がいいんじゃないのか、産めないのか」というのは、女という性を担った個人、人格一般を「結婚と出産」にのみ一面化して評価し、結婚していない、出産しないという状態にある人格、選択をした人格をゆがんだ「性役割」に一面化し矮小化しして否定するもの。
 憲法において個人として尊重されるべき人格を古い上にゆがんだイデオロギーでもって否定し、それを女性議員に叩きつけ、もって女性のみならず人間人格全般を否定する、憲法と人権を全く否定する発言であろう。個人への人権侵害を通じて人権全般を侵害しているのである。
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140624-00010003-jindepth-soci … だから、この「 <セクハラやじ報道の論点はズレている>少子化問題の原因を個々の女性に押し付けている固定観念が問題」という記事も僕の考えでは大いにずれている。
 「閉経して子どもの産めない女が生きているのは無駄」2004年(?)石原慎太郎、「女性は産む機械」2007年柳澤伯夫は、女性に対する人権侵害と女性蔑視を用いた人間の人権・人格全体対する危害であたったし、鈴木章浩の「結婚すれば…」発言も全く同質だと思う。

https://twitter.com/Blanka_Meduzo/status/481275186541367296