半世紀にわたるたたかいが歴史を動かした

(倉庫から出てきたB4版1枚2段組の資料を捨てる前に、ここに紹介します)


半世紀にわたるたたかいが歴史を動かした

ハンセン病訴訟原告溝口製次さんの訴え〈要旨・編集)

〈2001年か2002年〉六月十七日に開かれた山科区民のつどいと東山「溝口さんを囲むつどい」での溝口さんのお話を編集して紹介します。

十一歳で母に連れられて恵楓園に入所

 熊本から来ました溝口製次〈1935/12/28-2011/9/7〉です。
 私はいま六十六歳です。十一歳の時に菊地恵楓園に入所しました。忘れもしない、一九四六年三月十四日のことです。
 母が「明日、熊本見物に連れていってあげる、早く寝なさい」と言うのです。うれしくて前の晩はどきどきして寝ました。夜中に目を覚ますと、母は縫い物をしている。母の無地の着物を私の服に作り替えているんです。
 初めてそのとき、市電にも乗りました。うれしかった。電車を何度も何度も乗り換える。ところが「あれ、どこに行くんだろう。私の田舎と同じようなところだ」と思っていました。そんなふうにして恵楓園に到着したのです。
 翌日、白い着物を着た人が呼びに来て、蔵みたいな所に連れていかれました。目隠しをされ、筆や針で顔や足をつつかれて。「ここが痛いか?痛くないか?」と聞いてくる。そして「今日からあなたここにいなさい」と言われました。
 びっくりして外にとびだすと、母の姿はどこにもありませんでした。私は「帰る、帰る」と大騒ぎしましたが、取り押さえられました。一銭もないのでどうすることもできません。
 後で分かったことですが、母は、役場や保健所から毎日のように「長男坊を恵風園に連れていけ。そうしないと妹も弟もおれなくなるぞ、村八分になるぞ、家は真っ白に消毒するぞ」とおどされ、泣く泣く熊本見物だと言って療養所に連れてきたのです。母が帰ったのは、別れる時の悲しさに、これ以上耐えられなかったからだそうです。

真実を知りたたかいに参加、そして入党

 十八歳のとき、「らい予防法」に反対するたたかいがまきおこり、私も五日間のハンストもやりました。このときはじめて「そうかこの『予防法』のために自分たちはここに閉じ込められているのか」ということも知りました。
 このたたかいを本当に支援したのは日本共産党だけでした。そして、私も日本共産党日本民主青年同盟に加わりました。そのときの仲間が、京都で看護婦をされていて今日も来られています。たいへん懐かしく、また感動もしています。
 私は当時、すでにハンセン病の菌がない状態になっていました。「らい予防法」は病気が治っても、いったん入ったら出さないという隔離法なのです。患者だけでなく、家族、親戚まで被害を受けました。商売もだめになり、一家も離散して、今、どこにいるかさえわからない人もたくさんいます。
 この法律は、「天皇が統治する国の大和民族の血を汚すものは撲滅する」という理由でつくられました。そして新憲法のもとでも、何もかわりませんでした。
 私たちは日本共産党員として、さまざまなたたかいを続けました。そしてついに、五年前の一九九六年に「らい予防法」廃止をかちとりました。しかし、政府は「廃止する」と言っただけで、被害者への反省もなんの保障もしない、何も変わりませんでした。これでいいのかと思いました。

青年の一言が訴訟開始のきっかけに

 その半年後、薬害エイズ訴訟を支援する熊本の青年と話し合ったときのことです。ある女子大生から、私のその後の行動を決定付ける質問を受けました。それは「憲法違反として訴訟をするつもりはないのですか」というものでした。私は全身の血が凍ったようになり、返答できなくなりました。これがハンセン病訴訟をはじめるきっかけになりました。
 そして一九九八年七月三十一日、熊本地裁に十三人の第一次原告がはじめて提訴したのです。実は、この訴訟に恵楓園から参加したのは最初四人だけでした。「国の世話になっているのに裁判とはなんたることか」と非難されたからです。園長からは「あんたたちは弁護士にだまされている、支援する人は誰もいない、園から出て行け」とまで言われました。
 私は「これに負けたらおしまいだ」と思い、毎日毎日、原告を増やすために走り回りました。急速に、多摩、群馬、岡山、沖縄、青森など全国的な訴訟に広がりました。

ついに勝利判決と控訴断念をかちどる

 五月十一日、熊本地裁は「国も国会も憲法違反の行為を続けた。国会は立法不作為(ふさくい)の責任がある」という判決を下しました。画期的な全面勝利です。
 しかし政府は、私たちの控訴断念を求める声にたいして、門を閉ざし会ってもくれません。原告団は必死でした。私も一ヶ月間で五回、東京と熊本を往復しました。
 やっと二十三日の夕方に原告団と首相が会うことになりました。ところが、その日の午後三時頃には、「政府は控訴を決定』という夕刊が出ました。法務省が流した情報です。政府は最後まで醜いあがきをしていたのです。
 このとき、私たちは有楽町で宣伝をしていましたが、たまたま私だけが、原告団のたすきをしていたので、すごい数のマスコミに取り囲まれ感想を聞かれました。私は「仮にここに十億円つまれようと、熊本地裁判決の方をもらいます」と答えました。これはいっせいにニュースで流されました。
 ところが小泉首相は官邸に入って、青ざめたそうです。そこには全国からのFAX、メール、はがきなど、日本中の津々浦々から届いた、控訴するなの声が山積みになっていました。そして、とうとう首相は原告団に対して「控訴は断念します」と言ったのです。元気のない、蚊のなくような声で、そこにいたものにもよく聞き取れなかったそうです。
 翌日の新聞はどれも「首相の英断」と書きましたが、国民の大きな世論で追い詰めたということではないでしょうか。
 全面解決に向けたたたかいはまだこれからです。みなさんの大きなご支援を心からお願いします。

がんばれば政治も変えるこどができる

 いよいよ、来月は選挙です。
 二度とハンセン病のような悲劇をつくらないためには、政治が変わらなければなりません。どんな差別や偏見、国民の苦しみも、政治がおおもとにあるのです。そしてがんばれば、世論の力で勝利することも、政治を変えることもができます。
 ぜひ一言申し上げたいのは、公明党が、判決がでたとたん、てのひらを返すように、毎日のようにやってきたり、控訴断念は公明党の力だというビラまで配っていることです。
 彼らは署名を一筆も集めていません。集会にも来ませんでした。それどころか、徹底して中傷、妨害をしました。こういう政党が日本共産党に対してでたらめな攻撃をやっているのです。まったく許せません。
 京都は四候補たたれるということで大変激戦区です。
 保守王国である熊本から、日本共産党のメッカである京都に来て言うのもおこがましいですが、ぜひ日本共産党と河上よう子さんを勝利させてください。