「方言」解禁

この本は、前回の本の20年後2010年に出されたものである。
Ĉi tiu libro estis eldonita en 2010, post 10 jaroj de antaŭa eldono.


まあ、それでもトルコには行って見たいね。トルコ語も楽しそうよ。
Tamen mi sopiras viziti Turkujon. Kaj la turka lingvo ŝajnas interesa.

2010年『漂流するトルコ』より

「(2009年)11月13日、トルコのエルドアン首相と内務大臣ベシル・アタライ氏が国会で民主化のための一連の法案を提出した。法案採択が実現すれば、クルド語でのラジオ・テレビ放送が自由になり、選挙運動でクルド語を使用することも可能になり、またこれまで国家による決定でトルコ風に変えられていたクルド語、アッシリア語、アルメニア語などの町村名を元の伝統の形に戻すことができるようになる」というのである。
(15ページ)

 12月に入ってからは「トルコ東南部の主要都市ディヤルバクル市周辺の村落名にトルコ語クルド語併用の表示が出た」という報道があった。…バトマン県バトマン市の警察署とディヤルバクル県庁ではクルド語での電話対応を始めたともいう。(だが、その一方で、ディヤルバクル市の城壁区の区長アブドゥッラー・デミルバシュ氏に対して検察庁が「公の場でクルド語を話した」「区役所でクルド語とザザ語を話させた」などの「罪状」で起こした数々の訴訟のうち未結審の23件は継続している)
(16ページ)

 トルコのメディアが「新法案の中でトルコ政府が少数民族母語教育の権利を認めようとしていないこと」を批判し、もっと積極的に民主化を進めるべきだと公に発言することができるようになっているだけでも、私などにとっては隔世の感がある。
(17ページ)

 トゥルグット・ウザル氏は「自分がクルド人だ」と言えば投獄される時代にクルド人であることを黙秘して政界入りし、トルコ共和国の大統領〔「ほとんど名誉職である」〕になった人だ。在任中にタブーを打ち破って、自分が「クルド系」であり親族にはトルコ語の話せない人もいることを公言した後、任期を満了することなく、ジョギングの最中に急死した。…
 (後にトルコ人は「トルコはクルド人でも大統領になれた国だ。クルド人を差別していない証拠だ」と主張し始めるが、それは稚拙極まりない詭弁である)
(141ページ)

 「生まれた村は・・・もう無いんです。どいういう意味なのか、お分かりですよね」と言った女子学生はあらぬ方向に視線を移し、笑顔はどこかへ消えてしまった。…一緒にいたもう一人の女子学生が、大急ぎで話題を変える。
 「私たちは、小学校に入るとすぐ『我々はトルコ人であることを誇りに思っている』とトルコ語で暗誦させられるんですよ。小学校に入るまではみんな家でクルド語かザザ語かアラブ語を話しているからトルコ語は誰にも一言も分かりません。でも『意味がわからないから暗誦させられても平気でいられてよかった』と、後になってからはしみじみ思います。もしもあの頃、何を言わされているのか分かっていたら、どんなに辛い思いをしたことか。」
 …
 「二年生になるころには、何を言わされているのか分かってくるんです。悔しい思いをしないで済むように、胸の中で一瞬のうちに呪文を唱えるのよ。『私がこれから暗誦させられることは単なる引用に過ぎない。私の心は絶対に違うんだ』って。終わってから誰もいないところへ行って『トルコ人』を『クルド人』なり『ザザ人』なりに置き換えて暗誦し直すの。…」
(156ページ)

 1894〜96年と1915〜16年の二度に亙るオスマンル帝国軍によるアルメニア人大虐殺をトルコの学校では「アルメニア人がトルコ人を大虐殺した」と教えているため、トルコ国内のキリスト教アルメニア人は肩身の狭い思いをしながら暮らしている。だからヘムシン人は、アルメニア人と混同されるのを極度に恐れる。
(233ページ)

 …1980年代には若者も子供も皆ラズ語を話していたのに、トルコ語だけで育てようとする親が増えているのだ。…
 「…一文にもならないラズ語の研究のために貴重な時間を割いてくれる外国人の言語学者がやっと現れた。でも、消滅してしまうかもしれないと言う危機感を持って遠い国の方がひと肌脱ごうと決めてくださったということは、私たちのかけがえの無い母言語のラズ語がもうそこまで追い詰められてしまったということなのですね」と言ったホバ郡の四十代の男は、こぼれる涙を隠そうともしなかった。
(241ページ)

 ラズ語研究のためにグルジアにも行ったかと訊く人があった。国境で分断されたサルブ村の人だった。鉄条網の向こう側の人と向き合って声を交わすことは禁止されていると言う。両側から後ろ向きに歩いていって背中合わせに話をすることは時々できるのだそうだ。
 「…虐げられた少数民族の住むサルブのようなちっぽけな村の悲劇のことは、トルコ国内でさえ誰も気にかけないし、外国の人は何も知らない。ラズ人は、外でほがらかに大声で笑いながら、内では声を忍んでなく民族なのです」
(243ページ)

 2002年8月2日。EU加盟の前提条件として不可欠な「死刑廃止」「少数民族言語による報道、出版ならびに教育の自由化」などを盛り込んだ一連の法案をトルコの下院が可決した。…クルド人も、ザザ人も、チェルケズ人も、ラズ人も、もうすぐ晴れて自分たちの母言語でおおっぴらにラジオやテレビで話もできるし歌も歌えると喜んだ。トルコは、「国会でクルド語を話したという罪状」で現行犯逮捕され、このときまで9年以上も投獄されたままの元国会議員のいる国である。それももうすぐ昔語りになるだろう・・・と、気の早い向きはバラ色の夢を描き始めていた。
(301-302ページ)

 「子供の頃、小学校の外でさえラズ語を話しているところを見つかると教師にこっぴどくぶたれたものなんだよ」と、それまで表向き「ラズ人は自らの意思でトルコ語を話すようになった。国家に強要されたのではない」と主張していた人たちも、問わず語りに胸のうちを明かしてくれるようになった。
 「あるとき、牛にラズ語で話しかけて餌をやっているところを教師にみつかっちゃってね、
 『こらァッ。お前、今ラズ語喋ったな!』って、ものすごい剣幕。
 『でも、あのう・・・先生。うちの牛は、ラズ語で言ってやらないと…分からないんです』
 『ほう、そうか。ラズ語は牛と喋る言葉か。そんなら喋っていいよ。牛や犬畜生とだったらな』
 …その日はぶたれないで済んだんだ」
 と笑った大の男の目の縁が赤くなり、涙が滲んだ。
 「今朝までは、誰にもこの話をするわけにいかなかったんだよ、お上に告げ口されるのが怖くってね」と言った途端、涙は見る間に大粒になり、隠そうとした指の間からぽたぽた滴り落ちた。
(302-303ページ)