Laux kio kompreni homon? / 何によって人間を理解するか

7月に、障害者は不要で不経済で不幸しか産まないのでこの世から消した方が良い、という思想で障害を持つ人々を大量殺傷するという事件があった。(相模原障害者施設殺傷事件


この国家や社会(両者は人によっては全く同一視されているが)にとって障害者だとみなされた人間を「殺消」して構わないという思想・人間観に対抗する価値基準を日本人のみならず、世界は持ち得ているかというと、「近代」社会はまだ人を観るに「価値」で判断する体系しか整備していないのではないか、と思う。
「人間の価値」、「人命の価値」などと「価値」を使って語られる限り、そこには大小・良否・貴賎などの差異が必ず付きまとい、それを消去するのに「無限」などという呪文を冠しなければならなくなるのではなかろうか。
日本の現代唯物論も「平等」については一部の論者を除いて、真剣にこの問題に向き合えて来れなかった印象がある。(宗教がそれに成功してきたかというと、近現代においてたとえばキリスト教が優勢な国が実践してきた戦争や断種、人種差別などを少しでも想起すれば、まったく成功していないと言って良いのではなかろうか。キリスト教が宗教の絶対的代表者だとは言わないけれども。) 法の前に平等、神の前に平等、と言っても工場の門前、会社の入り口、社会の入り口、胎内からの出口において既に不平等に取り扱われ・排除され、女だからと、血液型がナントカだからだと、差別的な処遇を受けてしまう。


今われわれが依拠できる平等の根拠は日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」や、障害者権利条約などだろうか。


人類は近代より前は身分や職業、出自などわかりやすい偶然的な外的指標で差別され、それが社会に適合的であったが、近代以降は「能力」や資産、権力などで差別しあいながら社会を運営してきている。能力主義は近代社会に非常に親和的で適合的で、人の脳から能力主義的人間観を払拭することは非常に困難である。また、いくら人間の平等を唱えても、よほどの準備や適合がなければ企業で障害者を受け入れるということは企業として困難である。→こういうところからマルクスが『資本論』で抽象的人間を崇めるキリスト教が近代に適合的と言ったのだろう。


近現代の国家や社会のイデオロギーはしたがって「優生学」に親和的であって、それは『人間を「尊厳 Würde」においてではなく、「価値 Wert」の優劣において理解する思想を、その根底に有している。』
われわれは人間を尊厳において理解する思想体系を構築して、それに親和的な社会の仕組みを作らねばならないと思う。

Mamonismo, autoritatismo, sanismo (sano estas plej grava ol cxio alia), maljunigx-fobio (malsxatas aux timas maljunigxon), argumento pri rifuzo de sxargxo per sur junularo (argumento pri ke junaj generacioj rifuzas sxargxi sin per la medicina kosto de maljunularo),
argumento pri "digna morto", transplanto de organoj el homo "cerbo-mortinta", memevidenta apogo fare de junularo pri mortopuno al krimulo

http://www.zenkokuyuiken.jp/contents/journal/oldjournal/2005/takeuchi_akirou.pdf

Bati maljunulon, bati malricxulon, bati handikapulon, bati vivprotektaton, bati socialan malfortulon...


Nun en Japanio ne popoloj estas en tiuj atmosferoj, ne malmultaj (sed ne plimultaj) junuloj kaj multaj regpartiaj politikistoj malsxatas ne nur kontrauxregximulojn, malricxulojn, handikapulojn ktp.

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Antaux cxio, laux kio oni komprenas personon?
Nuntempe en multaj kapitalismaj landoj oni komprenas personon laux lia/sxia valoro. Alivorte oni taksas personojn laux laboro, talento, patriotismeco, kapableco de impostopago, utileco k.s., cxu ne?
La pensmaniero kaj vidpunkto pri kompreno de homo kondukas nin al euxgeniko.
Euxgeniko estas praktika. Nuna terglobo iras en euxgenika ideologio, kaj socioj iras laux euxgenika regulo. Euxgeniko estas ligigxema al moderna ekonomia socio.


Laux kio oni indas/devas kompreni homon? Oni devas personon kompreni je la digneco de homo.