エスペラントでグジグジ単語を調べているとなかなか面白いことに行き当たることがある。
穴草五郎は江戸時代よりももっと古く、だいたい弥生時代の頃の人で、中国の孔子と同じくらいか或いはそれより少し若い。
中国だって孔子の時代は、場所によってはまだ竪穴式の住居に住んでいたり洞穴で狩猟や採取生活していた人も多かったであろう。今だって格差が激しく地理的にも広いのだから、昔だって(或いは昔ならなおさら)均等に生産力や生活水準が行き渡っていたとは考えにくい。
そんなとき、穴草五郎は、様々な物体を小さくしていったらどうなるのだろうと考えた。穴草五郎はその当時としてはまだ一般的でなかったことであろうが、それを観念的に考えてみたが、この世を形成しているさまざまな物体や現象が単一のものから成り立っているとは考えにくかったようだ。
それで、多種多様で最小限の粒粒から一定の法則に従って寄り集まることによってこの世の万物が形成されているのだろうと考えてみた。
そのころの中国ではそんな物質的というか唯物論的な世界観を考え出してみせるということが、あったかもしれないが、後世に脈々と伝わるほどのことはなかったようで、水金土木火の五元素説が幅を利かせたような感じだ。ちなみにインドではもっと宗教がかった単位の小ささでの「世界つぶつぶ説」があったようだ。インドでの「粒」は仏教かヒンズー教の「珠」が何個か互いに離れて一つのグループを作ったものが最小の「粒」だったらしい。まあ、そんな教義が存在したことがあるようだ。
さて、「世界つぶつぶ説」が大陸の豪族の争いだとか、生産力の向上や自然災害や疫病からの自由やまじない・祈祷のために役立つとはあんまり思えんから、当時も実用的でない「思想」であったと思われる。だから中国では(それが発生していたとしても)伝承されなかったのだろう。
そんな無用な「世界つぶつぶ説」がなぜ今日にまで伝わっているかは、僕にもわからない。