エスペラントを平和のために用いたいと思っている人に対しての朝比賀(小林)氏の指摘は重要。
ここでは引用以外のことは書かないでおく。
La Revuo Orienta 1987年7月号
朝比賀昇「エスペラントにとっての100年 4. プロエス運動の人びと」より
ザメンホフがエスペラントを発表して僅か40年ほどあとになると、ザメンホフがどのような理想からこの言葉を創案したにせよ、言語自体が創案者の手を離れて独り歩きをし始めたことは興味深い事実である。…エスペラントは一つの言語であって、どんな目的の為にもこの言葉を使うことができるという「プーローニユ宣言」はザメンホフの理想を空しくするものとしてとかく批判されがちであったが、宣言の有無にかかわらず、事実はその方向へ動いていた。
La Revuo Orienta 1987年8月号
朝比賀昇「エスペラントにとっての100年 5. エスペラント報國同盟の人びと」より
日本が日中戦争[支那事変]にのめりこんだ1937年とその翌年とに、日本のエスペランティスト達がどのような行動をとったのかを調べてみると、日本政府の中国侵略に積極的に協力しようという傾向が目立つ。すでに人民戦線は潰滅していたから、反戦活動は望むべくもなく、日本エスペラント学会が学術団体のふりをして政府に協力しないことが精一杯の抵抗であった。エスペラントを使っていれば平和愛好者であり、また、エスペラントは平和の言葉だと信じている者がいるとすれば、それは単なる幻想にすぎないということを、この2年間の日本のエスペランティストの動きがはっきりと示してくれた。
つまり、エスペラント自体は思想をもっておらず、そのエスペラントを使うエスペランティストの考え如何によって、エスペラントは戦争反対の道具にもなれば、戦争を煽る道具にもなるのである。エスペラントは、もはやザメンホフの理想とは何の関係ももたない、独立した存在であり、e-istoがザメンホフを尊敬しようが、軽蔑しようが、それは全く個人的好みの問題であって、エスペランティストだからザメンホフの理想を理解したり支持していると思うとまちがいなのである。「エスペラントは平和のためのコトバだ」という妄想にとらわれている限り、エスペラントを使ってさえいれば自分は平和に貢献しているのだという誤解をしてしまう。要するに、エスペラントはいかなる思想とも結びついていないことを、すべてのエスペランティストははっきりと自覚していなければならない。