ザメンホフはエスペラントをなぜ、どういうものとして考案したのか 2 緑の旗の下での祈りとブーローニュ宣言

緑の旗の下の祈り

緑の旗の下の祈りの第6連
la preĝo sub la verda standardo

Kunigxu la fratoj, plektigxu la manoj,
Antauxen kun pacaj armiloj!
Kristanoj, hebreoj aux mohametanoj
Ni cxiuj de Di' estas filoj.
Ni cxiam memoru pri bon' de l'homaro,
Kaj malgraux malheloj, sen halto kaj staro
Al frata la celo ni iru obstine
Antauxen, senfine!

https://www.youtube.com/watch?v=9ZEaqNl2hwQ

兄弟たちよ団結して、しっかりと手を結べ、
前進だ、平和の武器とともに!
キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、イスラム教徒も
われら皆神の子だ。
いつだって人類の幸福を想っていよう
暗さにめげず、立ち止まったりせずに
人々が兄弟姉妹のようになる平和の目標へと、不屈に
 前進だ、限りなく!

適当に訳してみた。


ザメンホフは「緑の星の旗の下での祈り」という詩で、第一回世界大会の大会演説を締めくくろうと考えていたが、その最後の連(上記)の削除を求められた。
小林司氏の『ザメンホフ』での記述が生々しい。

 挨拶が済むか済まぬかのうちに、フランス人たちは日ごろの尊大な口調を改めもせずに、ザメンホフに要求をもち出した。
「大会演説の現行の最後にある『緑星旗下の祈り』の部分はどうしてもけずっていただかないと困ります」
 …
 ラザル(ザメンホフ)にとって、これは、晴れた日に雷が落ちてきたほどの驚きであった。エスペラントは全人類を一つの兄弟にするための手段にすぎず、人類が宗教的に一つになることこそ大切だと思っていたラザルは、この「祈り」の部分を話したいばかりにはるばるフランスまで旅してきたのだ。それなのに、その一番大切な部分を「話すな」と言われるとは……。
 ラザルは、あまりのことにくやしくてたまらず、泣き出してしまった。

ブーローニュ宣言---エスペラントはただの言語で、思想は関係ありません

「ブーローニュ宣言」は通称で、もとは「Deklaracio pri la esenco de Esperantismo エスペラント主義の本質に関する宣言」というらしい。
下記に対訳を参照して紹介。

  • エスペラント主義とは人々にとって公平な言語の使用を全世界に広める努力のこと
  • エスペラントは各国語を排斥せず、異なる国の人々に相互理解の可能性をもたらすも
  • エスペラントは誰の所有物でもない。
  • エスペラントは個人的規範を与える者はいないし、いかなる個人にも依存しない。
  • エスペラントをどのような目的で使うかについて全く自由
http://qitailang.small.jp/eo/bulonja.html


このブーローニュ宣言の精神でもって、ザメンホフ的な博愛主義に傾いていた初期の日本エスペラント学会の委員をやめちゃった(1923)のが千布利雄である。

エスペラントの二面性は人間の二面性

ザメンホフの「祈り」と、エスペラントを単なるツールと見做すブーローニュ宣言
大信田さんという方が、すごく簡潔にまとめておられるので引用して紹介する。

エスペラント

ただの言語であって理想とか平和とかには関係ない
理想主義者の言語であり理想のための活動である

という矛盾したふたつの性格を持っているように思われます。 エスペラントはこのふたつの性格のあいだで板挟みとなってきました。

エスペラントがそもそも作られた動機というのが、民族問題 ---支配する民族と支配される民族が世の中にあるということ--- に対するユートピア的な解決としての『国際補助言語』の発想でした。 作者であるザメンホフは『もちろん、 エスペラントを使えばそれで世界が平和になると考えるほど 私たちはおめでたくはないが、 しかし他民族に対する偏見を取り除くことはできるだろう』と述べています。 また晩年のザメンホフは『人類人主義』と称して 『「あなたのふるさとは」と尋ねられたら故郷の土地の名前を言うが 「あなたは何国人か」と尋ねられたら「私は人類人だ」と答える』 という思想をまとめています。

しかし言語としてのエスペラント運動は、とにかく思想抜きでないと進みません。 1905年の第1回世界エスペラント大会(フランス・ブローニュ)で採択された 『ブローニュ宣言』は、 『言語としてエスペラントを使うのがエスペラント運動であって、 それ以上のことは個人的問題である』としています(中立主義)。 しかし翌年の第2回世界大会(スイス・ジュネーブ)で ザメンホフは演説し、 『エスペラントには内在理念というものがある』 つまり諸民族の平和共存を求める理想主義こそエスペラントの魂である と反撃しています。 もちろんそういう理念が言語自体のなかに内在するわけはないのですが、 しかし いわば『エスペラント使用者の文化』として ある種の理想主義的傾向が根付いているのは 確かだと私は思います。

https://www.damp.tottori-u.ac.jp/~ooshida/esp/movado.html

少なくとも一点だけ同意できないのは「言語としてのエスペラント運動は、とにかく思想抜きでないと進みません」という部分である。エスペラントに何か博愛主義の思想が文法上組み込まれているはずはなく、思想を持っているのは使う人間である。人に働きかけ、紹介し、説得し、勧誘するという運動がどうして「思想抜き」で進められるであろうか。


さて、もともと、言語は人間関係を協力協同のために生まれ、維持したり良くしたりしする機能を果たしてきたという「平和」な側面と、人をだましたり攻撃したりすることもできるツールとしての側面を持ち、それは人間の結合と反発(あるいは疎外)という活動そのものでもある。

だから、大信田先生も書いておられるように「エスペラント」には内在思想はなかろうけれども、人間が生まれてきて、単独孤立では生きられない仕組みの生命体として、人間自体に内在思想がそなわっていて、それを意識して話す・書く・聞くか意識せずに人を利用し傷つけるか、ということだと今は思うのよね。