視覚障害者のエスペラント運動(日本)より

日本で、視覚障害者にエスペラントの火を付けたのは盲人エロシェンコであるが、彼は日本の盲人たちにどのように・どのようなものとしてエスペラントを教えたのであろうか。
また、視覚障害者の福祉の先駆者であり、エスペランティストとしても知られる鳥居篤治郎(1894-1970)などは、視覚障害者である以前に頭脳明晰で多能・エネルギッシュな人物であったようだから、東京盲学校(1888~東京盲唖学校〕1909~)の生徒ら自体が、エリートたちだったのかも知れない。



それにしても、下の引用に見るエスペラントへの熱狂は何であろうか。
また、そもそも大阪と岡山の盲学校でエスペラントが正式に採用されたその背景事情も不思議である*1




廣瀬浩二郎氏「宗教に顕れる日本民衆の福祉意識に関する歴史的研究」(2000年)より抜粋

 エロシェンコは東京盲学校生徒を中心に日本の視覚障害者たちにエス語を積極的に教授し、その指導の下で熊谷鉄太郎、鳥居篤治郎などがエスペランティストとなった。⋯そんな盲青年たちはなぜエスペラント学習に熱中したのだろうか。

https://dl.ndl.go.jp/pid/3170011/1/91

 日本点字が考案されたのは明治32(1890)年のことであり、大正期の盲学校教育は未だ義務化もされておらず、点字教科書の確保もままならない貧弱な状況であった。卒業後も一般大学への進学は不可能で、障害者差別の蔓延する弱肉強食の社会(〔大本教の〕出口直の筆先にいう「獣の世」)に、視覚障害者の活躍の場はほとんど与えられなかった。そんな中で大正11(1922)年には大阪と岡山の盲学校でエス語学習が正式に採用され、翌年には日本エスペラント大会で初の盲人分科会が開かれた。当時の視覚障害者たちは過酷な社会体制の下で抑圧されていたからこそエスペラントの理想に感動し、世界に目を向け自己の「希望」をエス語に託したのだろう。
 昭和3(1928)年には⋯岩橋を会長とする日本盲人エスペラント協会(JABE⋯ヤーベ)が結成され、点字エス和辞典や機関紙『オリエンタ・ブリンドゥラーロ』(東洋の盲人たち)も発行された。以下に掲げるのは機関紙創刊号に鳥居が寄せた巻頭言である。⋯視覚障害エスペラント運動の意義、当時の大日本帝國の世相の一端を示す好資料で、一般にはあまり流布していないので全文を紹介する。

(以下、片岡忠、峰芳隆『闇を照らすもうひとつの光』(1997、リベーロイ社)より引用されたもの)
 緑の星をあおいで
 暗黒に虐げられる者の求めて喘ぐものは何か。彼らのもがきの結果たる盲界諸種の運動の究極目的は何であるか。それは文化の共有であり、社会におる機会均等であり、而して目ある者と等しい幸福の獲得である。今や全世界の同じ運命者はこの崇高なる目的に向って、この人類根本の痛烈なる要求に向って、正に大同団結、勇敢に戦わんとしている。しかも彼らの前途にかかれる妨げの雲は『失明』という境遇に対する一般社会の偏見と人としての盲人を理解せざる人々の集団である。
 我らはもちろん永久に肉体的には盲人である。それ故にこそ我らは永久に真の人間たらんことを熱望するのである。この切実なる我らの要求、この行きづまれる現下の我が東洋盲界に新たなる希望の光を投ずるものは果して何ぞ。これ国際補助語エスペラントであり、エスペランティストであることを我らは深く確信するものである。エスペラントこそ実にややともすれば、兄弟かきに相せめがん〔けいてい牆にあい鬩がん⋯仲間内で喧嘩する〕とする我が現下の盲界諸問題を解決する友愛と親和の光であり、世界同胞主義の確立を現実化する唯一の鍵であり、また全世界の盲人、目あき等一体家族たらしめ、人類愛と人間愛の光につつまれる理想郷実現の原動力であり、そこには目あきと目くらの差別は少なくとも現在の世界におけるよりも少なくなるであろう。我らの喘ぎ求める新時代の光はただ緑の星の旗のかげにのみ見出されることを我らは実際に痛感している。
 私は今エスペラントの具有する言語的要素や実際的価値について語るのいとまと余白を持たないのを遺憾とする。けれどもただ私はかのルーマニアの皇后エリザベートの言える如く、『エスペラントは盲人を救い、彼らは人間という水平線にまで向上せしめるもの』であり、またレディ氏〔誰?〕の言える如く『よしや目あきの間にエスペラントが滅ぶことがあっても盲人の内には永遠にそれは栄えるであろう』ことを信じかつ祈るものである。目を上げてはるかに西の空、地球の他の半球を望む時、そこにも同じ運命の共が現実の盲人苦に悩み、共に手をとって進まんとしている。特にアジアの盲界において彼らは暖かい盲人相愛の手のさし伸べられんことを待ち望んでいるのではないか。何時まで我ら東亜の盲人のみが孤立を保ち得べきぞ。我らは立ってまず彼らと手を取り、全世界盲人進軍のシンフォニーを奏でなければならぬ。おお、タギージョ(夜明け)! おお、ノーバ・セント(新しき感じ)! 日出る国の一角よりそよ風のごとく東洋の暖かき世界に流れしめよ! エスペラントとその精神とが水の音なく大地を潤す如く、何時しかに我らの胸深く流れそめたことを意識する。何たる喜びであろうか。願わく目覚めたる同志諸君、親愛と宥和を示す緑の星の旗のかげに来たって盲人文化の世界的殿堂を建設せられんことを!

https://dl.ndl.go.jp/pid/3170011/1/92
日本盲人エスペラント協会の設立 1928 に際して

 以下は『闇を照らすもうひとつの光』より
 1928年にエディンバラへの留学から帰った岩橋武夫は、日本にもイギリス盲人エスペラント協会のようなものを作らねばならない、と日本盲人エスペラント協会を設立した。その機関紙のタイトルは Orienta Blindularo であったが、その名には鳥居篤治郎の次のような想いが込められていた。すなわち、ヨーロッパの盲人たちは自分たちの苦しみを解決するために協力し合っているのに、アジアではバラバラで立ち遅れている。われわれも一堂に会して互いに問題を出し合い、協力し合いながら解決していかねばならない。その時の言語は何か。中国語か、日本語か? ましてアジアの盲人が英語で話し合うほど悲惨なことはない。アジアの盲人が話し合うのに使う言語はエスペラントをおいて他にはない。
 岩橋、鳥居らがわざわざエスペラントを使おうとしたのは、エスペラントの普及自身が目的ではなく、視覚障害者の地位向上が目的であって、それは日本国内のみならず、アジア(なぜ「アジア」という発想になったのかは、もしかしたら当時の時局的なものがあったのかもしれないが)的範囲での協力によって達成されるものとして想定されていたからであるようだ。

*1:片岡忠『闇を照らすもうひとつの光』に野竹孝夫氏の談話として次のように紹介されている。宮嶋茂次郎という大阪市立盲学校の校長は大変保守的な思想の持ち主なのに、これからはエスペラントの時代だと、非常にエスペラントの普及に力を入れ、本科1年生から必修科目に取り入れた。だが他の学校では英語を教えていたので、学生は他校の友人と話が合わず、英語教育の要求運動が起こり、英語も教科に取り入れられた。(https://www2.osaka-c.ed.jp/osakachuo-c-s/folder3/post-71.html 1900 本邦盲唖教育の鼻祖であり京都盲唖院院長であった古河太四郎が来任 1907 古河校長が63歳で逝去し、市役所学務課長宮島茂次郎が校長事務取扱となる 1923 盲聾分離が成就され、教唖部が「大阪市立聾唖学校」となる。宮島盲学校校長が校長を兼ね、校舎は盲学校内に設置。 1924 高橋潔が第六代校長となる。) なお、同書にても岡山の事情はよくわからないが、岡山で教えていたのは理科教師の難波金之助という人物であったという。難波は岡山エスペラント会の創立者として『日本エスペラント運動人名事典』にも収載されているが、盲学校のことは記されていない