小林悌次(1912-1935)---プロレタリア・エスペラント運動に参加?

日本ステンレス工業株式会社『住まいル新聞』2007 年 12 月号「大月人物伝 歴史探訪」より引用して紹介。執筆は小林脩一氏。なお、同新聞には、長谷川テルを紹介した号もある。井上文次郎「日中戦争下、反戦放送をした非戦平和主義者 長谷川テル

時代の反逆者が疾走した或る短い人生の軌跡
小林悌次

1932 年(昭和 7 年)思想問題で第一高等学校を放送〔ママ〕されましたが、小林としては当時の知識層の潮流としては、当たり前の行動が、時流との齟齬となっていたのです。放送された後、初狩に帰郷しました。
東京に遊学する前の小林は、自分の小遣いをためては鉛筆、消しゴム、ノート等の学用品を買い集めて、学用品が変えない貧しい家庭の子弟に与えていたそうです。…
この時代は深刻な不況の時代でもあり、労働運動、小作争議が全国的に多発しており、教育界での教育現場に於いても欠食児童の発生が問題とされていました。
小林は帰郷してこの窮状を見て、身体の中に休眠中の状態であった社会主義の蠢動が始まりました。この様な状態は社会・経済の基本的矛盾に起因するもので、その解決がなければ教育現場及び教育の問題も解決できないという正しい認識に立つ教師も生まれつつありました。

その様な時代背景の基に、小林はプロ・エス(プロレタリア・エスペラント協会)の機関紙「ポエウ」および、プロ科同(プロレタリア科学同盟)の機関紙「プロレタリア科学」を広めることによって、プロ・エス・プロ科同の組織を作ることに努め、同時に「科学時報」「フロント」を出版して、大月及び上野原の組織を通じて配布していました。更に組織の強化づくり〔ママ〕に注力して、小学校教育のなかにメンバーを獲得することに努めました。
小林は猿橋署に勾留中に体をこわしましたが、その原因は結核菌を移された〔ママ〕であると、まことしやかに語られもしたようですが、その真意のほどは定かではありません。しかしこの時期結核に犯されたことは事実で、それが原因で 1935 年(昭和 10 年)鬼籍の人となります。(享年 23 才)

https://nsi10.co.jp/wp-content/pdf/smile/2007smile.pdf#page=12


なお、官報には第一高等学校への入学許可の記録、『學生思想事件一覧 第二輯』(1932)、『都留市史』(1993)、外山茂「消夏随想 旧制高校の頃の思い出」『信用金庫』1983年8月号などに放校となった事件が触れられている。