1914年 第10回 世界エスペラント大会(翻訳)

翻訳機は使ったり使わなかったり。誤訳御免。

ウィキペディア

UK 1914
1914年の第10回世界エスペラント大会はパリで開催される予定であった。3,700人のエスペランティストがこの大会に登録し、そのうち2,500人は外国人であった。巨大なゴーモン・パレス(もとは競馬場で8000人収容・5000席。コンサートもできた。大会時までに3400席の映画館に改修。リンク先地図は現在ホテル)が借りられ、緑の旗で飾られた。ポール・パンルヴェ(数学者で政治家、翌1915年には教育大臣)による歓迎のスピーチも準備されていた。組織準備は模範的と言えた。

欧州戦争が勃発した時、ロシア人、ドイツ人、イギリス人のキャラバンはすでに出発しており、8月1日にパリに到着した外国人エスペランティストたちは、興奮した群衆、全般的な戦争動員、そして出発する男たちへの母や妻からの涙の別れを目することになった。キャラバン自身も急いで列車に戻るも、全員が戻れたわけではなかった。不運な外国人の中には民間の捕虜収容所に収容された者もあった。他の者は途中で足止めを食らった者もあれば、家に帰れたものもあったが、多くは戦場へと旅立つこととなった。

ドイツのケルンに立ち寄ったザメンホフ博士は、ロシア国境に急行するも国境が閉鎖されていることを知り、ベルリンまで戻り、スウェーデンフィンランドサンクトペテルブルクを経由してワルシャワの自宅までの長旅を強いられた。
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「ドイツ・エスペランティスト

Germana Esperantisto Novembro 1914(ドイツエスペラント連盟の機関紙)より

「第10回(大会)」の前と後

 このタイトルの下に、H. Bolingbroke Mudie 氏〔当時、イギリスエスペラント協会の会長〕が「ブリテッシュ・エスペランティスト」紙(9月号)に、非常に貴重なレポートを書いているのを紹介する。大会関連の出来事である。このレポートはみなさんの興味あるところであろうし、またイギリスのエスペラントの同志たちが戦況をどのように見ているかも知ることができよう。(編集部)


 何たる災難! われわれのこれまでの歴史の中で一番とも言えるほどの輝ける大成功!だったはずなのに、流血の事態になろうとは。20世紀だと云うのに、文明も宗教も地獄の力に抗うことはできなかった。
 少なくとも500人のまじめなイギリスのエスペランティスト、その名の通りの希望する人たちが、あちこちの港から海峡を渡った。海峡は今やわれわれにとって、〔人を隔てるのでなく〕より重要で好ましい意味がある。
 同じ志を持つ仲間たちとの楽しい経験に励まされて、多くのメンバーがあれこれの想定される初めての外国旅行の困難とたたかっているのだ。大会組織委員会の精力的な活動で、われわれの熱気は見たことのないほどのレベルだ。
 私もほかのみんなも開会式典を待ち切れない気持ちだ。式典では何回目かの、あの「ロンド・ファミリア」が集うことになっている。
 土曜の朝に私はビクトリア駅で友人の Heldmann と合流した。彼はミドルセックス委員会のメンバーで、すでに発表されているように、公立学校へのエスペラントの導入はこの委員会のおかげなのである。
 エスペランティストたちはその日、たいていはフォークストンかドーバーの船を使っていて、ニューヘイブン〔英〕とディエップ〔仏〕の間で20人くらいの同志と会った。
 暑い太陽と海の騒音が期待を高まらせる。やや長いディエップでの停車の後に、われわれの満員列車はフレッシュグリーンの・微笑みのフランスの地をひた走る。いさかいとか戦争とか苦しみだとか流血なんて考えもしなかった。
 パリに近づくまで何も特別なことはなかった。パリ郊外までの間にたった3人の兵士を見たぐらいだ。だが、〔朝の?〕7時頃、なにかが起こったことがわかってきた! だがこれといった確定的なことはサン・ラザール駅に着くまでわからなかった。駅には群衆がびっしりで通常の出口が塞がれていた。われわれは脇の小さな出口を見つけて、急いで通りに出た。そういうわけで後で知ったのだが、あの群衆はイギリス人で、飛んで家に帰ろうとしているところだったのだ。彼らの中には私の両親もいたらしい。あとで聞いたのだが、親は私と一緒にやってきた仲間の何人かと会って、駅から出ないですぐに帰るよう促したとのことだ。
 駅の外は大混乱! 長いこと、大変長いこと辻馬車を待たねばならなかったし、やっとホテルに着いたものの、1時間前に戦争動員が発表されたということで旅行ガイドは興奮しきっていたし。それも当然で彼は明日にはベルギー国境にまで行かねばならないというのだ。
 ウインザーホテルでセベール将軍〔有名なフランスのエスペラント世話人〕、ブリカール、ショセグロ、ロレ・ド・リル〔いずれもVikipediaにある人物〕、Archdeacon 〔助祭長?人名?〕に会って、夕食をいっしょにとった。その後大会組織委員会の会合のために中央事務所に行った。
 この会合でわれわれはいろんなことを決めたのだが、下に要約してみる。
 1. 大会の開催は日曜の夕刻に宣言されるが、すぐに閉会する
 2. 大会実行委員長はセベール将軍とする
 3. 大会組織委員会は要求する参加者にはできるだけ参加費を返すこと。しかし大会参加カードで他の参加者に返金することはしない。
 4. 会議が中止される可能性について、もっと早く警告できなかったことについての委員会に対する苦情は、正当ではないと(nenia plendo estu pravigebla)宣言すること
 上記のことは全員一致で決まった。
 後で、(John Mabon?)ワーデン氏が親切に(会場のゴーモン・パラスの?)受付ホールまで一緒に来てくれた。
 有名なプラス・クリシー(ゴーモン・パラスが在る?)にわれらの緑の星が強く輝くのが遠くからでも見えた。何十万の人がこの星を、普通の大会の開催中に見たことか、知る者があるだろうか。大会の受付ホールで、驚きや喜びに満ちたりしないのは、アラジンの魔法のランプの所有者くらいなものだ。広くて、きれいに飾られたホール。全体で3800人もの大会参加者を収容することができる。大書きされた大会スローガン「世界に来たりニューセンス! En la mondon venis nova sento!」 なんという皮肉なんだ! 本当にこのスローガンは金色の代わりに血の色に染められてしまうのか。こんなきれいな受付ホールを絶対忘れないだろう。なのに大ホールに15秒間しか入れないなんて! というのもホールの外の豪華な前室の中にエスペラントの同志たちが、たいていはイギリス人だが、集まっていたからだ。イギリスの金貨しか持っていない多くの者が、朝から腹をすかしていて、知らせを待っていた。すぐに私は椅子の上に飛び乗ってアナウンスした。第一報によれば明日の夕刻には大会開催することが決定した。そして私としては参加することを勧める、と。みんなに私は忠告した、落ち着いて、よく寝て、早く起きるように。早朝新聞をよく読んで何をなすべきか知らなければならないのだから。委員の会合の間、私が知ったのは、受付ホールが深夜まで開かれているということだった。私はそれで、両親を探しにすぐに走っていった。走ってというのは、辻馬車はもう見つからなかったからだ。両親はそう遠くでないところに泊まっていたが、通りは騒然としていたし、警官は全くいなかったので、私はたくさん道を探さねばならなかった。ようやくラングレット婦人が大変親切にその客たちの面倒を見ている可愛らしい建物を見つけた。驚いたことにイギリス大使館が受けた情報によれば、6時頃私の両親、目の不自由なモリソンさんを連れたローレンスさん、ロシュさんとウィンターさんたちはもう立ち去ってしまっていた。大きな荷物は持たずに、にいっぱいの小さなスーツケースだけを手押し車〔pusxveturilo〕に乗せて、ラングレット氏と私の父が押して行った〔pusxveturilon veturigis?〕という。(amasigitaj 以降の意味がよくわからない)
 ラングレットさんの親切さは、あの大混乱のなかで本当に大きくて、フランスの同志たちが彼らイギリス人のために、あのような同志の家を見つけてくれたのは本当にラッキーだった。その家は、ブルソー通り66番地にあって、戦争が終わったらいつかパリを再訪したいというみんなに強くおすすめする。
 あの知らせはもちろん状況を一変させた。私は受付ホールにだいたい11時頃には駆け戻ったのだが、もう扉には鍵がかかっていた。どうすりゃいいんだ!
 ホテルに戻ると、ヘルドマン氏が云うには、彼は Archdeacon 氏といっしょに駅で駅長(? cxefo)に聞き取りすることができた。そして明日朝も通常通りディエップ行き列車は運行するだろうが、後にはすべて停止するだろうとのことだった。18歳から42歳までの総ての国民(? cxies patrinido)戦地に行かねばならないからだ。
 氏はそう受付ホールでアナウンスし、それで私はホッとした。フランス政府は確かに「何千人ものイギリス人達の口を〔フランスから〕なくすために、あらゆる努力をするつもりだ」ということがわかったからだ。〔英国人を全員英国に帰す?〕
 アダムス氏といっしょにわれわれは、駅にどうなっているか見に行った。信じられないほどの混乱具合だった。大変な苦労をして、何度も違うところに行ったりして、結局列車(omnibusa vagonaro)はルーアンから深夜0時50分に出るということだった。そこでわれわれはホテルに戻ったのだが、ボーイたちはもういなくなっていた。ホテルの主人が自らエレベーターの操作をしていた。ほぅ!未使用の寝具はなんと白くて心地よさそうに見えることだ。逆に鏡の中には襟のところが汗で糊がすっかりなくなった、ひどい自分の姿が映っていた。目の不自由なメルリックさんはもう寝床に入っていたが、アダムスさんは自分らと一緒に駅に行くよう彼に言っていた。駅でわれわれは頑張って列車が出るのか出ないのか、どの外階段〔ホーム?〕からなのか、調べてきたのだった。そのような努力の最中に、新しく到着したばかりの星をつけた仲間たちを見つけて、私は驚いた。すぐに私は彼らに駆け寄って、---特にハイドさんとマーチャントさんを覚えていた---そして大会は開催できないこと、パリはダメなこと、自分自身も去ることを伝えた。彼らは仰天したが、疲れているしお腹も空いている上に、大陸の国の中での総動員ということが何のことかちっともわからないということで、とりあえず予約していたホテルに馬車で〔?〕行くことにするとのことだった。彼らの体験した冒険については、彼ら自身が読者に報告されるであろうことを期待する。
 突然列車が現れて、機関士はルーアンまで行くつもりだというようなことを言った。われわれはすぐに切符も見せずに乗った。私はレストラン〔食堂車?〕まで行って、最後のパン3切れとハム2切れ、オレンジ3つと大変不味い水の大瓶を買った。車掌〔?〕がラッパを吹いて、列車は横揺れを始めた。ほんの少しずつ愛する祖国、近くて遠いイギリスにわれわれは近づいていた。
 5時間にわたるのろのろ運行の後、わめわれはルーアンで兵士たちの中にいた。兵士らは全フランス国民とともに、われわれに食いつくように尋ねてきた。「イギリスは何かやってくれるのか?」。われわれは返した「安心しろ!」「イギリスは決してあなた方を見捨てたりしない!」。そして握手だ。なんという幸福だ!
 実に、もしイギリスがこの期に及んでその義務を果たさないとしたら、イギリス人は何年も大陸に顔向けできないだろう。
ディエップへの列車が3時間後に出ることがわかったのは大きなおどろきだった。そこでわれわれはルーアンの教会などを巡ってみることにした。店で美味いコーヒーを飲んのだが、そこはわれわれのフランスの同志たちがイギリス人のために特別に手配してくれたものだった。
 それと、誰も切符を見せるよう言わなかった! マルセーユからカレーまで列車に乗ったという二人以上のイギリス人に聞いてみたが、全く切符を提示しなかったとのことだった。ということは、無料で大陸を旅行したい者は、総動員の時期を選ぶことだ!〔ひどい冗談〕
 ディエップでは蒸気船が岸づけされていたが、船長はイギリスに行くかどうか知らなかった。興奮した旅行者の群衆はどんどん大きくなっていき、その中で、アダムス氏とメルリック氏は荷物をガードしていた。その群衆になっている旅行者たちはノルマンジーから戻ってきている人たちだ。一方でヘルドマン氏と私は人生で一番楽しい水泳をしちゃったりしていた。
 まもなくわれわれは戻ってきて、もう船に乗っている友人たちを探し始めた。
 船は通常600人の乗客を乗せるのだが、聞いたところでは、少なくとも1500人が乗船しているとのことだった。たいへんざわざわしていて、泡がデッキ全体を覆い、ほとんどの人が隣の人に嘔吐していた! なんという旅だ! 「平和の友」はロシアに対して宣戦布告し【編集部注:なぜならロシアはドイツとオーストリア=ハンガリー帝国に全軍を動員して、ドイツを強いたからである】〔第一次世界大戦=欧州大戦は図式としては露仏英の三国協商 vs 独墺=洪〕、歴史上最も深刻な犯罪がまさに実行された、正義と仁愛とが再び地獄の諸勢力に勝利するであろうよりも前に、血の川が幾筋も流れるであろう、などという声がディエップの〔駅の〕ホームで聞かれた。


 第10回世界エスペラント大会〔1914年〕はこんな感じだった。われらが組織委員長ブールレ〔Carlo Bourlet 1866-1913〕が夢見た輝かしい凱旋…。彼はもう亡くなっていて、良かったと思う。でなければこの非情な運命の打撃が彼の心を打ち砕いて死に至らしめていただろう。
 翌日は銀行の休業日だった。ホームスさんの心遣いによる〔?〕親切な電話が、まだ夢の中の国にいた私を起こしたので、あの以前の冒険が悪夢などではなく、現実に起こったことだったと実感した。そしてわれわれの首都はエスペラントの不幸な避難者でいっぱいであることもまざまざと想い返された〔trivis〕。しかしわれわれの国は国境がないし、「スコットランド人の同志のナイフの助けによって」〔?〕、われわれはイギリス・エスペラント協会の窓を開けさせ、図書室を登りきって〔?〕開けると、一気に疲れ切った避難者でいっぱいになった。彼らは息も切らず体験を話したが、どれもが他を凌ぐような話ばかりだった。国際部隊が商店を襲撃し almiliti、大量の食料を持ち帰ってきた。イギリス・エスペラント協会は、われわれのイギリスでの運動史上最もユニークな集まりにもてなしを申し出た。私は、できれば一緒に海辺のリゾート地へ行けたらいいな、と希望を述べた。しかし、危機の間は「Home, sweet home」〔埴生の宿のことか。1914年5月に同名のサイレント映画もある〕こそが課題なのだと皆が感じていた。
 私はまた、危険地帯をいつものように〔? 会長なのだから長たる男子のならわしとして、の意か〕最後に離れるのではなく、早く帰ってきたわけについて個人的な声明を発表した。私は受付ホールでの不幸で自信過剰なアナウンスをしたことを深く後悔している〔フランスでのことか?〕。出席者は全員一致で、ローズ・マリオット氏〔1856-1932の人物か〕が提案した決議を支持した。
 その週はイギリス・エスペラント協会に避難者が次々とやってきた。私たちの本部の状況のおかげで〔la centra situacio de nia cxefloko helpis〕、避難者は自分たちの進路を見定め、経験を交流し、少しずつバラバラにまたは連れ立って平穏を再び見出すために家に帰っていった---われわれは大変喜ばしく思っている。あんな体験を癒やすのは、平和と静けさしかない。
 イギリス・エスペラント協会の会議は投票で二つの決議を採択した。別に掲載する予定である。一つは、日に日に増大する〔国際的な友好とエスペラントに対する?〕疑いをもたらす時代に、かくも熱心にエスペラントのデモの催事に出席しようとしてくださった皆さんすべてに感謝するための決議である。オーストリアは、戦争ではなく、ベオグラードの砲撃〔1914年7月-8月〕でその名誉を満たすのに十分だと告げられていたらよかったのだが ―― そして多くの人がそう期待していた ―― われわれはどれほど熱烈に「エスペロ」を歌ったことだろう!私たちの運動にとって、なんと大きな勝利となったことだろう!
 しかし、人生は公平だ。大きな成功を目指す者は、必ずそれと同等の大きな失敗のリスクを負うものだ。エスペラントやその意味について考えるのが今は難しいとしても、この類まれな危機が速やかに終わったら、文明世界は必然的に、人々の意志に反して繁栄した国を殺戮の場へと変えるような政府に対して、厳しく不寛容になるでしょう。われわれはそのことを忘れないようにしなければならない。そして、その時こそわれわれの運動は、国境や陰謀にとらわれず、人類の幸福のみを目的とした、人間同士の協力の領域へと歩み入るだろうと、しっかり認識しておこう。
H. Bolingbroke Mudie